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One Two えいと

One Two えいと ~八王子市民の市民によるタウン誌~

 

2007年4月、約11年間の発行を終え、無事に終刊いたしました。
これも読者の方々のお力添えの賜物です。
どうもありがとうございました。

 

One Two えいと 合本

 

One Two えいと 合本


50音順に話題を追いながら編集し、全48冊で八王子の「今」を伝える事典が完成。

上下2巻組、1500ページ超
10,000円、限定50部!


●発行 えいと舎 (株)清水工房内
●合本のお申し込みはこちらから

 

One Two えいと 「あ」の号

One Two えいと 「あ」の号

 

One Two えいと 「あ」の号


浅川今昔物語

 

藍染は私の代で終わりにします…… 藍染職人六代目

「長板中形(ながいたちゅうけい)は俺の代で終わりだ」
六代目「萬染物店」の野口汎(ひろし)さんの心はもう決まっている。汎さんの代で店を閉める覚悟である。
萬染物店の歴史は旧い。
土浦出身の初代清兵衛が京橋に染物店を始めたのは、江戸時代のことであった。その後販売よりも染めることに力を注ぐようになって、八王子(中野上野4丁目)に店を構えたのは、大正13年4代目の猪之助の時。染物をするには広い敷地が必要で、八王子に移転したのもそのためだった。
「京橋から持ってきた藍甕がこれなんだ」
野口さんの指さした方には、藍を満々とたたえた16個の甕が土間に埋められている。その内の4個が京橋の店から持ってきたものだという。
汎さんの父親の謹一郎さんは、染物一筋の人であった。謹一郎さんは、明治44年生まれ。高等小学校を卒業した12、3歳のころから、染物を始めた。東京都や、八王子市の技能功労者として表彰された。朝は四時起きで、長板中形を作った。実に、70年に及ぶ、藍染人生であった。
謹一郎さんが、藍染一筋の人生を送れたのも、汎さんの手助けが大きい。中学のころから父親の手伝いをしていた汎さんが、本格的に染物を始めるようになったのは、二十歳のころだった。汎さんは昭和11年1月生まれ。藍染を仕事とするようになってから、はや40年の歳月が流れた。
しかし、共に仕事をしてきた、よき指導者でもある父は、今はない。謹一郎さんが藍甕を残して逝ったのは、平成3年のことであった。今、汎さんは一人で染めている。作業場を広く感じるのは、気のせいであろうか。
「おやじが亡くなってからは、人手がないから、追われる物からこなしていくような状態だね。おやじが元気なころは、まだ色々なことができたんだけどね。今は一人になってしまったから、手間暇かけられなくなってしまった」
父親の跡を継いで染め職人になった汎さんだが、自分の息子には跡を継いで欲しいとは思わない。
「この間、若い人が後継者になりたいと言って来たけれど、とても食べていけるような職業ではないから勧めなかった。もう長板中形を染めて生活できる時代じゃない。みんな、着物を着なくなってしまったからね……」
とはいえ、野口さんの藍甕には、八王子よりも、全国から噂を聞きつけ染色の以来があるという。北は東北、南は九州まで、藍染にして欲しいという作品が送られてくる。また、藍甕を使って染めていく自称の弟子や、都内の大学生たちが授業で野口さんの家を訪れている。遠くから、市の商工観光課に問い合わせをして探してくる人もいるという。
長板中形が一反仕上がるのには、平均5日ぐらいかかるというが、お天気しだいで、全く作業が出来なくなることもあるという。
「梅雨になったら大変だ。反物に型付けした糊が乾かなくて、かびてしまったりする」
野口さんの染める反物は、表だけでなく、裏にも同じ柄を染める「両面染め」である。だから、白い部分がはっきりと染め抜かれているのが特長である。
さらに「『錘彫り』の両面染めのゆかたは全国でもうちだけだ」と汎さんは胸をはる。「錘彫り」とは、細かな白い点から模様が形作られているようなものをいう。
野口さんの染めた長板中形は、「竺仙」という問屋を通じて全国の有名デパートに卸されていく。八王子では呉服店の「さとう」や、デパートの「そごう」で手に入れることができる。
問屋の「竺仙」では、一反、一律に48,000円で、野口さんの染めた長板中形を販売している。「若い方にも似合う柄がありますよ」とのこと。
着物としてだけでなく、のれんや座布団、テーブルセンターなど、部屋のインテリアとしても合いそうな長板中形。江戸時代から続く伝統工芸を守って、汎さんは今日も、両面染めのゆかたを染める。
はたして、長板中形は生き残るのことが出来るのだろうか……。

 

長板中形のこと

江戸時代から現代に受け継がれてきた「長板中形」とは、木綿を本藍一色で染めた、夏に着る超高級ゆかたを言う。
長板とは、5、6メートルほどの樅の一枚板で、糊で型付けをするときに使用する。
中形とは、文様の大きさで、中くらいの大きさの文様のことをいう。中形より大きい文様のことは「大紋」、小さいものは「小紋」という。
野口さんが染めるのは、表と裏に糊で型付けをする長板中形で、表と裏の糊置きをずれないようにするには、熟練が必要である。
藍甕につけた布を引き上げ、空気に触れさせて酸化させると、藍色に発色する。甕につけて酸化させると、藍色に発色する。甕につけては引き上げる作業を繰り返すと、次第に美しい藍色に染まっていく。
染め上がった布の糊を洗い落とすと、糊の落ちたところが白い模様になって現れてくる。野口さんのは、表と裏に糊がついているため、そこには藍の染料が全く付かない。だから、白いところがくっきりと浮き上がってくる。

 

One Two えいと 「い」の号

One Two えいと 「い」の号

 

One Two えいと 「い」の号


いちょう並木:いちょう祭
 

 

いん石 八王子に落ちた星の話

今年の年明け早々の1月7日の夕方、関東地方に落ちた隕石は記憶に新しいと思います。八王子でも「光るものをみた」という話を聞きます。
そこで、今から179年前の江戸時代、八王子に落ちた隕石の話をしてみましょう。
隕石が落ちた時はどんな様子だったのか? 人々の驚きは? これらが分かるの当時の古文書や日記などです。一三の文書に「石が落ちてきた」ことについて記載されています。
それらの文書から、隕石が落ちたのは文化14年11月22日(西暦1817年12月29日)、未の刻(午後2時頃)だということがわかります。
文書ではその時の様子を「光り物が宮中を飛び」「天気は晴れているのに雷鳴のような音」「猟師の鉄砲のような音が煙草三服ほどする間に3、4回」とし、さらに「空中に白気」「白雲を引くような雲(けむり)」が現れたことを記しています。
隕石が落ちたのは「上野原金剛院の脇の忠七の麦畑」「大和田河原」「八幡宿」「新田高倉」など。上野原金剛院の忠七の麦畑に落ちた隕石は「泥を四方に跳ね飛ばし、1・2メートルの穴があいた。みんなで掘り出したところ、周囲90センチメートル。外回りは黒く、割れていた」と落下時の様子を伝えています。当時の人々はどんなに驚いたことでしょう。
また、この時隕石が落ちたのは八王子だけではなく、日野宿、日野本郷(日野市)、落合村(多摩市)にまたがる広い地域でした。
ところで、この隕石はその後どうなったのでしょうか。行方を追ってみましょう。「河原に落ちたものは石に当たって砕けた」ほか、「名主らが幕府に訴え、石を献納した」(塩野適斎『桑都日記』)とあります。
市内越野のおじいさんは、そのまたおじいさんからの言い伝えで、柚木の電話局辺りの田んぼに落ちた隕石を「偉い人が油を浸した布で包み、持っていった。下々の者は見ることができなかった」と教えてくれました。
古文書によると隕石の一部は、江戸在住の八王子代官・小野田信利に送られ、勘定奉行、若年寄らが見て、その後天文方・高橋景保が奥右筆・布施蔵之丞に調査をさせた報告があります。しかし、幕府に送られた多くの隕石が、その後どのように扱われたのかは記録がみつかっていません。
ところが、昭和30年ごろになって京都の土御門家の古文書の間から「八王子いん石の事」と書かれた紙包みが発見されました。その中に小指の爪先ほどの、わずか0・2グラムの隕石のかけらと写真のような書き付けが入っていたのです。誰が京都まで送ったか。今となっては疑問だけが残ります。
実はそれから50年後の慶応2年に京都府下にも隕石が落ちており、こちらの方が土御門家の手に入りやすかったはずです。かけらがこの隕石である疑いも残っているのですが、書き付けのおかげで八王子隕石であろうと断定されているのです。
他からも八王子隕石が発見されれば、比較することによってこの疑問は解けるでしょう。神棚の奥かどこかに眠っている八王子隕石が発見されることを願います。 それではここで、隕石の正体や隕石から宇宙のどのようなことが分かるのか、話してみましょう。
隕石は星が落ちたものですが、輝く星(恒星)が落ちたものではありません。火星と木星の間を公転している無数の小惑星が軌道を外れて地球に落ちてきたものです。
同じように落ちてくるものに流れ星がありますが、これは隕石とも違い、彗星(ほうき星)が撒き散らした小さな粒が落ちて燃え尽きるものです。
また、隕石を分析することによって、太陽系が出来始めたころと言われる4~50億年前の惑星の様子を知る手がかりになるのです。
一個の石といっても、隕石から知ることの出来るものは限りなく、大きなスケールの時間や空間の旅ができるのも興味深いものです。

(森 融)

 

One Two えいと 「う」の号

One Two えいと 「う」の号

 

One Two えいと 「う」の号


うた、はたおり唄
 

 

宇宙のさすらい人「彗星」の謎

3月下旬から4月にかけて、百武彗星の接近が大きな話題になった。よく「彗星のごとく現れる」などというがまさにその言葉どおりの出現だった。
最近の天文学や宇宙化学の進歩はめざましく、宇宙の謎は次々に解明されつつある。しかし、新しい発見があるとまた新たな謎が生まれてくるのも事実で、自然界の奥深さを改めて思い知らされる昨今である。そんなわけで、宇宙についての話題はつきないが、今回は百武彗星の出現に合わせて、彗星を中心に宇宙の謎を少しばかり探ってみることにしよう。

彗星の正体は汚れた雪だるま
彗星というのはまことに奇妙な天体である。不意に現れて、太陽に近づくと長い尾が発達する。彗星の英語名コメット(Comet)は、ギリシャ語で女性の長い髪を意味するコメーテスに由来する、というのもなるほどと思わせる。この奇妙な姿と不意に出現するという意外性から、昔の人は彗星を天体とは考えていなかったらしい。アリストテレスのごときは、地上の火が上層大気中の火の故郷に帰っていく姿だと唱えていたのである。こんな中で、彗星が太陽系の一員であり、万有引力の法則に従って運動する天体であることを証明したのは、ハレー彗星の名で有名なエドモンド・ハレー(1656~1742)であった。
では、彗星とは一体どんな天体なのだろうか。彗星はよく「汚れた雪だるま」だといわれる。この考えはもともとアメリカの天文学者F・L・ホイップルが1950年頃にいい出したものであるが、それは1986年の探査機によるハレー彗星の観測で実証された。ハレー彗星の本体(核)は、長さ約15キロメートルの細長いピーナッツの殻のような形をしており、表面の大部分は塵におおわれて真っ黒だったが、あちこちの割れ目からガスと塵のジェットが激しく噴出していた。核の80パーセントは水(H2O)の氷からなりアンモニアやメタンの氷も含まれていた。また塵の多くは有機物であるという、注目すべき事実も明らかになった。

彗星のふるさとはどこか
彗星は太陽系の一員だといったが、では太陽系のどこからやってくるのだろう。これについてはまだ確かなことはわかっていないが、いくつかの考えはある。最も有力な仮説は、地球と太陽の距離を五万倍くらいの非常な遠方に、彗星のもとになる氷天体がうようよあるという考えである。これはオランダの天体学者J・オールトが唱えたので、一般にオールトの雲とよばれる。いわば彗星の巣くつだ。これらの氷天体が何かのはずみで軌道に揺らぎが起こると、太陽めがけて落ち込むコースをたどるようになり、彗星として私たち目にふれることになるわけである。彗星の中には、一度太陽に近づいたきりもどってくられない放物線や双曲線の軌道や極端に細長い楕円軌道をもつものがある。これらはオールト雲を起源にしている可能性が大きく、百武彗星もこういうものの仲間であるらしい。
ところが最近になって、もう一つの別の可能性が有力視されるようになった。ハレー彗星のように比較的短い楕円軌道の彗星は、太陽と地球の距離の数十倍ほど、(冥王星の軌道付近)の、割合近い所に起源があるのではないかという考えである。実をいうとこの考えも、アメリカの天文学者G・P・カイパーによって1950年頃に唱えられていたのだが、長いこと注目されなかった。今日カイパーベルトとよばれるこの領域が、にわかに脚光をあびるようになったのは、この2、3年のことである。
1992年アメリカの2人の天文学者が冥王星の軌道付近に、直径200キロメートルの氷天体を発見した。これをきっかけに、その後同種の天体がぞくぞく見つかり出したのである。現在その数は数十個をこえている。これまで太陽系の辺境のさみしい場所と思われていた冥王星界わいが、がぜんにぎやかになってきたのである。これからの探査の進展によって、カイパーベルトの実体がしだいに明らかになり、近距離の彗星の起源がいっそうよくわかってくるだろう。
彗星はこれまで変わり者の天体とされ、木星や土星などの惑星にくらべるとどうしても影がうすかった。しかしこの変わり者にこそ、太陽系の真の姿をとく鍵がかくされているといえそうなのである。
彗星の多くは百武彗星の例にもれず、アマチュア天文家の努力によって発見される。もしあなたが新彗星を発見したら、あなた自身、宇宙探究の最前線に立っていることになるのだ。

(小森長生 記)

 

One Two えいと 「え」の号

One Two えいと 「え」の号

 

One Two えいと 「え」の号


駅ウォッチングin八王子、縁日

 

榎本星布のこと

八王子が生んだ、江戸・天明、寛政気期に活躍した女流俳人榎本星布をご存知だろうか。
限られた紙幅に、その境涯と秀吟の幾つかをご紹介しようと思う。
天空に輝く星座を彷彿とさせる、美しい雅号をもつ星布は、享和十七年(今より二六五年前)、昭和初期の地番で市内本町通りに面する七、八番地の榎本家に生を享けた。父は忠左衛門徳尚。十六歳で生母を喪った星布は、やがて千人隊の出と思われる、俳諧をたしなむ仙朝を継母に迎えた。
当時の八王子は、さほど俳諧が盛行していたとは思えないが、母となった仙朝がすでに白井鳥醉門の俳人であったこと、或は星布と同年の義弟津戸為白(夫信親の弟)が大甲と称する、雪中庵蓼太門の俳人であったことは、当時の八王子を俳諧の黎明期と見てよいと思う。また鳥醉の編著に、千人隊士、窪田古田や志村書橋の名があることもそのことを窺わせる。さらには芭蕉―其角―祗空の流れを汲む、自在庵祗徳がこの地に、俳諧道場古学庵を建て、時に来遊して門下の指導に当たったことが、萃実坊長隠の「俳諧月見原」にのっている。時は寛保のはじめ(一七四〇年頃)である。
星布は継母仙朝の導きにより、俳諧の道に入り、のちに師と仰いだ舎白雄の後援を得て鳥醉の立てた松原庵を継ぎ、その二世となり、地元八王子はもとより、多摩西部、江戸、甲州、相模等に隠れなき存在となるのである。
星布の編著書は、寛政、享和年代に多く、その中に、全国的に高名な俳人の名を見ることが出来、また投句者の所在地を知ることができるのである。星布は芭蕉の風を慕う心があつく、寛政十二年には八王子新町の永福稲荷境内に影詠を建立している。現在の碑は明治三十年により損耗したものを、有志により戦後再建されたものである。弐部方町の八坂神社、梅坪天神社には一門の俳句奉納額がのこっている。現あきる野市の秋川神明社には句の奉納の記録があり、或は足利市の古刹最勝寺には、文化七年星布の句を含む奉納額が保存されている。また享和二年(一八〇二年)刊と推定される、立川市諏訪神社蔵の「発句集」は星布の指導下に編まれた句集で収句は四五〇〇に余る膨大なもので、星布晩年の活動を偲ぶことが出来る。
星布最晩年、八十歳の賀集「春山集」も逸することの出来ないもので、地元八王子はもとより広範囲な各地の俳人名をのこしている。
星布八十三年の生涯は、まことに俳諧ひと筋の営為であり、地域文化の面では殆ど不毛と言える当時の状況下での偉業は、如何なる賛辞にも過褒とも言えぬものである。
終わりに珠玉の星布句を僅かながら提出することとする。静謐な主観を秘めて、時に温雅にときに雄渾な、現代俳句の叙情にもひけをとらない星布句を堪能していただきたく思う。

雉羽うつて琴の緒きれし夕哉
雛の顔我是非なくも老にけり
海にすむ魚の如身を月涼し
燕子花水に歌かくおもひあり
蝶老てたましゐ菊にあそぶ哉
老が膝芙蓉にてらす思ひあり
舘の火のありありと冬の木立かな
山牛のぬれて来にけり初しぐれ

以上は一子喚之の編んだ、星布尼句集所収の句である。
前期の俳諧環境下で、天明の星と呼ばれる星布時代を出現させたことは、ひとえに彼女の詩性の豊潤と、旺盛な知識欲並びに積極的な人的交流によるものと、改めて感嘆するのである。

(小林義一 記)

 

One Two えいと 「お」の号

One Two えいと 「お」の号

 

One Two えいと 「お」の号


おんがた、おりもの
 

 

八王子温泉 「福福の湯」

なぜ「福福の湯」なのか
八王子温泉「福福の湯」の中温湯にある肩打ちの湯は、恵比寿様の膝元から湯が湧き出ている。今年10月に増設した露天風呂にも大きな恵比寿様が祀られている。男風呂が恵比寿様だから、女風呂は大黒様なんだろう。
八王子で初めて天然温泉を掘り当てた高橋一成さんは、日頃から恵比寿・大黒天の信仰が厚く、自分が経営しているいろり焼の店「ひな鳥山」の敷地内で、毎年10月の19日~21日の3日間、「えびす講まつり」をしている。そんな高橋さんにある夜、恵比寿・大黒様が夢枕に立ち、「温泉が出るので掘りなさい」とのお告げがあった。その一言を信じて掘った温泉だから、恵比寿様の福と大黒様の福で「福福の湯」なのである。

30年以上温めてきた夢
高橋さんが、脱サラでいろり焼の店をはじめたのは昭和38年である。数年後、都内からよく来てくれるなじみ客に「ここで温泉に入って、いろり焼きが食べられたらいいね」と言われたことがあった。ボーリング業者に相談したら、1000メートル掘れば温泉が出ると言われたが、夢のような話で、ずっと温めていた。ところが3年前の平成五年に夢のお告げがあった。
早速、ヘリを飛ばしたり高圧電流による地中探索で地熱の検査などをしたが、五分五分の可能性ということで一旦は断念した。が、どうしても夢枕のことが気になって、通産省、環境庁と走り回って「ひな鳥山」の敷地内でボーリングに着手した。
1200メートルまで掘ってみたが何も出てこない。業者も半ばあきらめかけ、工事が十五日間も中断されてしまった。「あと100メートルだけ」と頼み込んで再開したところ、1270メートルのところで少し地熱が温かくなってきた。こうして1350メートルで泉源に到達した。この間、ご飯ものどを通らない毎日だったと高橋さんはふりかえる。
毎分230リットル、温度約四二度の温泉「ナトリウム・塩化物・炭酸水素塩温泉」(環境庁指定機関・中央温泉研究所調べ)が出たのである。日本全国には3万以上の温泉があるが、その85パーセントは単純(食塩)泉で、体に良い鉱物が多く含まれている温泉は15パーセントしかない。箱根湯本の泉質名が「ナトリウム・塩化物温泉」なのに、福福の湯には血管拡張作用のある「炭酸水素塩」が含まれているという。「美人湯」の三要素の中の2つ、ナトリウムと炭酸水素塩が含まれていて肌はつるつる、神経痛や筋肉痛・消化器病などに抜群の効果がある温泉なのである。

温泉が出たのに浴場がない
新聞、テレビなどで温泉が出たことは報道されたが、入浴の施設が作れない。温泉の出たところが第一種調査区域で施設の建築許可を取るのに時間がかかるためである。
そこで、今の場所にローリーで湯を運びプレハブの浴場を暫定的にオープンした。今年の10月には露天風呂も増設している。
現在は平日で300人くらい、土・日曜日だと千人を超える入浴者があることもしばしば。露天風呂も含めて男女とも140人で芋洗い状態になってしまうという。腰の痛みなどに効くので滞在時間が四時間を超える人が多いという。これを10トンローリーで1日12回、120トン運び、男・女湯とも毎分50リットルを流してまかなっている。
何はともあれ、日曜日の夜入浴に行ってみた。1日1500円で何時間でもよい。下足用のロッカー、脱衣ロッカー、タオル、バスタオル、休憩用の衣類までついてくる。流し場のシャンプー、リンスはもちろん、上がり湯にはドライヤー、化粧水・乳液、整髪料まで用意されている。人の多いことをのぞけばホテル並である。これなら何の準備もなく気軽に立ち寄れる。
浴室に入ってみると、日曜日ということもあって、家族連れか若い人が多い。関東ローム層の湯の特徴であるコーラ泉で一般に黒湯と言われるだけあって、膝から下は見えないくらいだ。露天風呂にはかがり火がたかれ、身長の二倍はありそうな岩から温泉が湧き出ている演出もあって、ここが八王子だということを忘れさせてくれる。 大広間では飲みもの、食事なども自由に注文できるので、しばらくくつろいでまた湯につかることができる。考えもののような気もするがカラオケまでついている。別館には有料だが仮眠施設もあるなど、仮営業所とは思えない便利さだ。

織物のまちにちなんで「ゆかたで温泉」
高橋さんの夢は、湯が出ている敷地内に本格的な入浴施設をつくることである。四方を見渡せる山頂で、いろり焼きに舌鼓を打って温泉に入る。高橋さんが30年来夢見ていたことである。そこでは、八王子の織物にちなんで「ゆかた」でくつろぎ、心身のリフレッシュをと考える。また八王子はみこしの多いところなので、みこし広場のようなユーザーが参加できるイベントホールを作るなどして、名物の少ない八王子の活性化にこの温泉が役立てばと、さらに夢を広げている。
「福福の湯」は、市内からだと野猿街道を直進して「下柚木」の交差点を右折してすぐの右側にある。南大沢駅は1時間に1本送迎バスも出ている。

 

One Two えいと 「か」の号

One Two えいと 「か」の号

 

One Two えいと 「か」の号


学園都市センター、介護

 

介助犬 日本で最初の介助犬は八王子から誕生したことをご存知でしたか?

介助犬(パートーナードッグ)を知っていますか?
「介助犬」とは、手足に障害のある人の日常生活を助けるためにトレーニングされた犬のことである。この介助犬は「人と犬の二人三脚」という発想から、一九七五年アメリカのナール・M・バーキン氏によって考案された。
「パートナードッグを育てる会」に介助犬として導入されているのは、カレンダーなどで見かけるやさしい目をしたラブラドール・レトリバーである。仕事が好きで、人に対してきめ細かいケア―をしなければならない介助犬としての特質を、このラブラドール・レトリバーがもっているからなのだろう。
さて、トレーニングを受けた介助犬の仕事とは何か。日常生活の中で、介助犬が障害のある人をどのような場面でどのように手助けするのだろう、と首をかしげる方のために、その主な仕事内容を紹介しておこう。
○買い物のとき、お店の人にお金を支払う手助けをする
○車椅子などへの昇降のとき、体を支えたりする
○エレベーターボタンを押す
○衣類をひっぱり、着替えの手伝いをする
○段差のある所では、不自由な足をくわえて持ち上げる
○支持されたものを取ってくる
○パートナーが落としたものを拾う
○ドアの開け閉めをする
○室内の電気をつけたり消したりする
など、パートナーの指示に従ってじつにみごとに介助をしているのである。ひがな一日、日向ぼっこにうつらうつらとしている我が家の犬とのあまりのに、違い驚かれる方も多いかと思う。しかし、このようにトレーニングされた優秀な介助犬がパートナーと一緒にレストランやデパート、病院などに入ろうとすると断られることも多いという。

人と犬との二人三脚
一九九〇年に「パートナードッグを育てる会」は、八王子市椚田町設立された(現在は東京都杉並区高円寺に事務局を移転)。代表の千葉れい子さんは、日本最初の介助犬「ブルース」をパートナーとして、二人三脚の共同生活を始めた人である。ブルースはアメリカの介助犬団体より貸与された介助犬であった。しかいs、ブルースは千葉さんのよきパートナーとして三年半をすごし、一九九五年四月、体調を崩してアメリカに帰国している。
介助犬の育成は、候補犬が二~三ヶ月くらいまで育った時点で、まず一年から一年半程度の基礎訓練を行い、その後五~六ヶ月の専門トレーニングを経て、レシピエント(犬を提供される障害者)に渡される。さらに人と犬との、まさに二人三脚のトレーニングを積んで一人前に育っていく。このトレーニングにかかる費用やトレーナーなどの人件費、会の運営費などはすべて寄付や援助会員の会費、ボランティアなどでまかなわれているという。
こうした現実の厚い壁を乗り越えながら、「パートナードッグを育てる会」はその活動の成果を、一九九五年三月、国産介助犬第一号「グレーデル」の実働開始ということで結んだ。さらに、一九九六年には四頭の候補犬が導入され、その内の一頭がこの春には千葉さんの新しいパートナーとなって実働を開始することになっている。

(北岡敬子 記)

 

One Two えいと 「き」の号

One Two えいと 「き」の号

 

One Two えいと 「き」の号


喫茶店、ギャラリー

 

金星と絹織物

金星は約二二四日で太陽のまわりを公転(一周)する太陽系第二惑星です。惑星の中でも抜群の光度で輝き、最大光度は、およそマイナス四・七等。これは恒星の中で最も明るい「おおいぬ座のシリウス」マイナス一・六等の約一七倍の明るさです。
地球の内側を公転しているため、地球から見ると、太陽から約五〇度以上は離れず、明け方または夕方にしか見えません。
明け方に見える時には「明けの明星」、夕方に見える時には「宵の明星」呼ばれます。別々の星と思っておられる方も多いようですが、実はどちらも金星なのです。
清少納言の『枕草子』に、「星はすばる、ひこぼし、夕つつ……」とある「夕つつ」も宵の明星・金星のことです。
この金星と八王子の絹織物にまつわる話が残っています。「織った絹で金星を透かして見るときれいな模様が見える……」というのです。
つややかな絹繊維にそって金星の光が回り込み、いくつにも光って見えるのです。
『日本星名辞典』(東京堂出版)によると、金星と「きぬぼし(絹星)」と呼ぶところが広島・愛媛・岡山・島根・岐阜・八王子などにあると書かれています。
「高い天の星や絹屋の娘、絹でおがめば九つに」(広島県安佐郡)。
夜遅くまで機を織っていた織り娘たちが、仕事の合間に星を絹で透かして、お互いの見え方を比べ合っている姿が目に浮かぶようです。
機械織りと違って手織りの場合には、織り娘によって織り目が微妙に違い、金星のにじみ方も微妙に違っていたことでしょう。
金星は日没時にはもう、西の中空にあるので「高い天の星」は金星ではなく、天頂近くまで昇る恒星「こと座のベガ(織姫星)」や「ぎょしゃ座のカペラ」だったかもしれません。
機織り屋の昔話は、「織り娘たちの楽しみは仕事(主に農林作業)を終えてやって来る若い衆との交流や、気晴らしに歌う機織り唄だった」と伝えています。
賃金前払いの年季奉公で逃げ出すこともできず、一日一五時間以上の労働時間。夜まで続く単調な手機織り。彼女たちは多分、自分が織っている絹の着物など着たこともなかったでしょう。そんな織り娘たちのささやかな楽しみの一つが、星を絹で透かして、綺麗な模様を見ることだったのかもしれません。

昭和になって機械織りになるまでそんな生活が続いていたことなど、現代の我々からみると遠い昔のこととしか考えられませんが、この話は織物がさかんであった時代の八王子を思い出させてくれます。

この星と機織りの話や、星と地元に関わる話をご存知の方がいらっしゃれば、お教えいただければ幸に存じます。
(森 融 記 八王子市役所勤務)

 

One Two えいと 「く」の号

One Two えいと 「く」の号

 

One Two えいと 「く」の号


蔵(八王子の酒蔵)

 

車椅子に明けくれる

私(筆者)が両親の看病をしていた頃、車椅子の威力に驚いたものだ。車椅子さえあれば、食卓にもつけるし、病院にもいけるし、買い物にもいけるし、お花見さえ出来る。その上車椅子に乗ることで、体が元気を取り戻せる。父母各々に注文通りに作られた車椅子が届いた時の喜びは忘れられない。その時はまさか身近な八王子に、車椅子作りに日夜努力している人がいるとは知らなかった。その人は八日町に住む北島祥光さん、会社の名は株式会社ケイアイである。八日町の本社でお話を伺う。
北島さんがこの事業を先代の藤次郎氏から受け継いだのは昭和四十年頃。先代は第一次世界大戦後、傷痍軍人の収容されていた施設に医療機器を納めていたが、患者の移動に困っているを見て調査を始め、欧米には車椅子というものがあることを知り「患者運搬車」としてこれを輸入したのがそもそもの始まり。日本では施設の様子も利用者の体型も欧米とは違っていたのでこれにあわせて製造を始める。当時は赤坂に会社があって、北島さんは渋谷の生まれだが、一家は昭和二十年八王子に疎開、二年後台町から現在の八日町に移る。
第二次世界大戦後の昭和二十四年福祉四法といわれる法律が出来、傷痍軍人以外の身障者にも車椅子は公費で支給されることになって需要が増え、現在では全国で十社が製造販売、三十社が販売のみに携わっている。施設むきに既製品を作る所では製品を卸すことができるが、北島さんのようにオーダーメード専門の所では一つ一つ注文通りの寸法と形に作っていくので業者に卸すことはなく、直接身障者本人に納めることになる。子供の時から重度の障害を抱えている人の場合は、年月と共に車椅子も大きい物に作り変えることになり、患者さんとの接触も多い。注文を受けるに当たっても、患者、医師、理学療法士、作業療法士、子供ならその親、と多くの人の言葉に耳を傾ける。また途中から交通事故や病気が原因で身障者になった人の場合は、リハビリして機能回復を目指し、その上社会復帰のための訓練をして、社会にもどさなければならない。その間、身障者の手伝いをするのがこの会社の使命と北島さんは考える。注文から納めるまで二週間から二ヶ月かかり、本人の収入より公費負担分の割合も変わる。
立川市砂川町の向上を見せていただいた。体育館位の広さの所で何人かの人が図面を見て製作中、すべて手作業の様子。北島さんによれば一人が責任を持って一台にかかわる。最近では材料もチタンやアルミになり軽くなっているとか。まわりには組み立て前の部品が並び、二階には出来上がった色とりどりの車椅子が折りたたまれてぎっしり並んでいる。電動車椅子も目に入ったが、これは全国で二社のみが作り、北島さんの所ではこれを患者に紹介し、納める中継ぎをしてアフターサービスに当たっている。
北島さんの顧客の中には台湾から家族で定期的に来日、北島さんの会社で車椅子を注文、出来上がるのを待って帰国する一家もあるという。心温まる話である。

(小沢道子 記)

 

One Two えいと 「け」の号

One Two えいと 「け」の号

 

One Two えいと 「け」の号


八王子の芸者衆、京王線

 

ケーブルカー

ははそはの 母とも思ふ 高尾ねを
這ひ上りゆく 春のさ霧は 佐藤文男    (高尾山歌碑より)

八王子に住む者にとって、否東京に暮らす者にとって、故郷とも思え、母とも思える所、それが高尾山である。都心から一時間あまりの所にありながら、鬱蒼たる大杉の林をはじめ、いろいろな樹木、草花、野鳥、昆虫等に恵まれ、人々は都会の喧騒を忘れる。

勾配は日本一の31度18分
その高尾山で毎日活躍しているのが、高尾登山電鉄のケーブルカーである。京王線高尾山口駅から五分、せせらぎにそって上がっていくと、三角屋根の清滝駅がある。建物の中に入るとちょうどケーブルカーが止まっている。中程まで登ると、上からもケーブルカーが降りてくる。木々の緑に映えてオレンジ色と黄色の車体が光ってみえる。東京でケーブルカーがあるのはここと御岳山のみとか。都市周辺では、貴重な存在である。登るうちに勾配はますます急になり思わず足に力が入る。それもそのはず、後で聞けば、最も急なところは日本一の急勾配とか。まわりは手の届きそうなところまで緑、緑である。五分もすれば終点の高尾山駅。ここまで来れば薬王院までは徒歩十五分、海抜六〇〇メートルの頂上までは四十分である。

戦争中には……
高尾山の歴史を見ると、戦時中はこの付近に大本営の地下壕が建設中だったとか。戦況悪化とともに長野県松代に移り、その跡が中島飛行機の地下工場になった。ケーブルカーはすべて供出された。ふもとから少し上がったところのトンネルの中には飛行機の部品や燃料が爆撃を避けて詰め込まれていたという。終戦後は復興のために多くの木材が高尾山でも伐採され、方々に木材運搬用のそり道が作られ、ケーブルカーの線路跡も利用されたという。

テレビドラマにも
清滝駅長の田中伸昌さんに尋ねてみる。入社当時は京王高尾線もなく、JR高尾駅からのバス通勤だったとか。高尾山口駅まで京王線が通じたのが昭和四十二年。もともと信仰の山で歴史は遠く奈良時代に及び、昭和二年のケーブルカー開通までは、皆歩いて登った。その後、昭和二十四年に再開、今日に至っている。定員一三五名、十四分間隔で運行。始発は八時、最終は、夏場は夜景を楽しむビアガーデンなどがあるので九時四〇分、秋は五時四五分、冬は五時一五分である。
乗降客は初詣の日が一年通じて最大で、リフトも入れて一日、二五、〇〇〇人くらいになる。春秋の行楽シーズンは子どもの遠足や年輩の乗客も多い。冬はマイナス二~五度で、ケーブル路線の上半分だけ雪が降るということもあり、東京に雪が積もると、スキーを持って乗る人もいる。テレビドラマ『ひとつ屋根の下』では、このケーブルカーが舞台になり、ロケが行われた。

田中さんの思い
万一ケーブルが切れても、二メートルで停止する強力な自動ブレーキが働くが、毎日の車両点検、週一回の点検など、安全には常に神経を使う。そんな中で気がかりなのはここ数年利用客が減ったことだ。最近はウォーターフロントが人気があり、方々に関心を引く娯楽が出来て人々の興味が分散しているというのが田中さんの見方。健康ブームで歩く中高年が増えても、ケーブルカーの利用者にはならないことを筆者は痛感。身障者でも、体調の悪いお年よりでも、また小さい子ども連れでも、ケーブルカーがあれば難なく登山を楽しめるというはっそうで、 どんどん出て来てこの自然を楽しんでほしい。車でのアクセスが容易だといいと思う反面、自然破壊は絶対に避けて欲しいと、圏央道についての。思いも複雑な田中さん。
社員のもう一つの悩みはごみだが、見渡したところでは、どこにもゴミが落ちていない。田中さんによれば「ゴミ持ち帰り運動」が叫ばれ、全山にあった屑箱が撤去されると、次第にゴミが減ったという。また月曜やゴールデンウィークの後など、登山電鉄、京王電鉄、薬王院、茶店等が共同で清掃を企画、ボランティアが協力することもある。
登山電鉄ではリフトのほか、頂上の高尾山駅と京王線の高尾山口駅に売店・食堂を、JR八王子駅ビルにもレストランを開いている。

(小沢道子 記)

 

One Two えいと 「こ」の号

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One Two えいと 「こ」の号


国際交流、甲州街道

 

ごみ(ダイオキシン)を考える

「香川県豊島、岐阜県御嵩町、埼玉県西部地域、茨城県新利根町……と、廃棄物の処分場をめぐる問題がマスコミに大きく取り上げられています。
豊かな自然環境に恵まれた八王子……しかし廃棄物の野焼や不法投棄は市内のあちこちで見られます。昨年八王子自治研究センターが行った市政に関するアンケート調査でもこの問題に関する関心が高く、具体的な場所が二〇ヵ所以上あがっています。
八王子・生活者ネットワークにも市民からの情報や不安の声が寄せられています。これをもとに市内の不法投棄や野焼の実態調査を始めました。美しい山や水源地が廃棄物で埋められたり、住宅地のすぐ近くで野焼が行われていたり、そしてその数の多さに衝撃を受けました。ある日気がつくと空き地がフェンスで囲まれ、「何だろう。資材置場かしら」と思っていると、煙を上げ始める。そんな所がいくつもありました。特に山間の地域や貴重な緑が残された地域に多く、そのために人目につきにくいのです。八王子のこうした「施設」には、おそらく広範囲な地域から廃棄物が運び込まれていると思われます。
地球上で最強の猛毒ダイオキシンは、ごく微量でも発がん性、生殖異常をおこすといわれています。ダイオキシンはものを焼却することによって生じるのです。これはごみの焼却施設が桁外れに多くごみの焼却率が高い、またそれに含まれるプラスチックの量が多いことなどによるためと思われます。
昨年八月、多摩地域における野焼不適正処分の防止にかかわる連絡協スタート。また、「東京都ダイオキシン取組方針」がまとまりました。八王子は市民の命と健康を守るために、早急に実態調査、分別の徹底、指導など対策を進めるべきです。違法な業者を取り締まるには行政に対する市民からの情報が欠かせません。また違法な業者を非難するだけでなく、ごみ・廃棄物の問題は大量生産・大量消費のライフスタイルと結びついていることも忘れてはならないと思います。
(八王子生活者ネットワーク)

 

One Two えいと 「さ」の号

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散歩道、わたしの盛り場

 

左入と散田 そして坂みち

八王子は楓の葉身のような地形だ。その広がりは東西に二四・三キロ、南北に一三・四キロ、周囲九四・五キロ、面積は一八六・三平方キロメートル、海抜六三メートルから最高八六二・七メートルと高低にも変化に富む。そして盆地上で、周囲の峰峰から連なる背が街中へとのびる。都心より四〇キロ離れた陸地、したがって当地の気象も冬は寒く、夏は非常に温度が高くなるのもこうした地形によるところが大きい。
今回は「さの号」である。さのつく町は「左入町」と「散田町」の二つである。町の歴史は省略するが、両町の名物を挙げたい。
左入町にはアトリエバルビゾン・村内美術館がある。十五周年を迎えた。バルビゾン派を中心とする一九世紀フランス絵画、印象派を蒐集、常設展示されている。村内家具の社長であり、美術館長の村内道昌氏の理想とする、コーヒーの香りのする美術館をと、文字通り実践されている。只今はコーヒー付きで三〇〇円で素晴らしいコレクションと作品群を、ゆったりと鑑賞できる。これは特にお奨めの教養コースである。
散田町は真覚寺と万葉公園を挙げたい。真覚寺は古刹(真言宗智山派)を物語る境内の古木や心字池のふぜいがよろし。それに蛙合戦でその名も高い。ヒキガエル(蟇蛙)が三月中旬頃に数万匹、関八州八里四方から産卵に集参する。一〇数匹が一かたまりに、多くの雄蛙が浮かび、さながら合戦のようだと説く。
隣接する万葉公園はクマザサにおおわれた、多摩の自然林を今に見せる地だ。植物公園とも呼ばれる故である。小径を登りつめれば市街が展望される。一等三角なみのパノラマが楽しめる。ゆっくり散歩の健康コースである。万葉の赤駒の碑を見落さずに。
次に桜のつく地名などを挙げてみたい。
桜木(下恩方町)、桜株(川口町)、桜久保(四谷町)、桜沢(川町)、桜田池(散田町池の名)、桜台団地(長房町)、桜田(散田町)、桜並(大谷町)、桜横丁(八木町から八幡町)など数あるものだ。
さてさて次なるものは、数ある坂みちにご登場願おう。この冬には雪の日が多かった。車での走行でつくづくと感じたものだった。つい意識せずに通り過ぎる坂みちなのだが、歴とした名前があり、それに伝説や言い伝えがある。
わが街は、周囲が高台と丘陵と峰々の連なりにある。東西にのびる国道20号(甲州街道)、南北の国道16号(東京環状)が中央部で交差する。この道にあるのは、ご存知の大和田坂8大和田町)や稲荷坂(中野山王)で、特に稲荷坂は絵にも描かれたり、付近のお寺の伝説、托鉢の布施をことわったばかりに、米びつがことごとく蛇に変わった話とか。学友稲荷といわれたり、八王子千人同心の日光へ往来した時代、この坂で別れたのだろう。
西へ向かうは武蔵越(南浅川町)、大平から小屋場谷をつめ越堺し千木良(神奈川県)へ。四五〇メートルの急な坂みち、胸つき八丁って処か。
何かイメージのわく名前をみよう。恋路坂(館町)、碁石坂(打越町)、歳ノ峰坂(平町)、七曲り(戸吹町)、小津坂(上恩方町)、ここは夕やけ小やけの里マラソンのコースでもある。本当に急なのぼり坂で、ここでは心臓が飛び出しそうな思いをしたものだった。古戦場跡のある廿取坂(廿取町)、桜で有名な多摩森林科学園の通り、いわゆる今の高尾街道である。そう、この街道を北へ進み犬目から戸吹へ八王子カントリー(ゴルフ場)前を梨小路坂(犬目町)と言う。なんとやさしい感じのするネーミングではなかろうか。
山百合の香りただよう滝山城跡へ。この途中に車でも後戻りしそうな急坂の天野坂(丹木町)がある。一方いまでは坂らしい姿すらみられない坂名が三年坂であろう。甲州街道の八木町西端から北へ。20号バイパス通りを越えて多賀神社へ。元社は滋賀だったためか、京都清水の産寧坂にならって付けられたと言う。それがいつの間にかに現在の名前になった。この坂でころぶと三年以内に死ぬと言う。くわばらくわばら。もう一つ悲しい話。下げ坂(川口町)この坂名は八王子城落城の時に、敗者北条方の首級を下げて通ったと伝えられ、地元では不吉な話。
この他に、愛嬌坂、赤坂、網代坂、石神坂、椚坂、子安坂、栃淵坂、不動坂、谷坂、猿坂、作り坂、行人坂などなどある。
坂みちでは、新しい出合いがあったり、親しい方との別れがあったりする。人生の日々の営みのような思いがする。誰にでも一つや二つの秘められた想い出があるものである。
(宮田治三 記)

 

One Two えいと 「し」の号

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八王子の出版あれこれ、地酒

 

「四季の会」 視聴覚障害者と自然を楽しむ市民グループ

「マス釣り」でおおはしゃぎ
外出する機会の少ない在宅視覚障害者と、ともに外出することを通して自然にふれ、自然を楽しんでいる市民グループ「四季の会」がある。
今年の夏を象徴するようにどんより曇った八月二十二日午前九時三十分、京王八王子駅前中央口広場に、「四季の会」の人たち三十数人が集合していた。定刻に代表の谷合侑さんが挨拶のあと今日のパートナーの組み合わせを変えている。「四季の会」では、会主催で外出するときは、その都度パートナーの組み合わせを変えている。そこに新しい出合いがあるからである。
谷合さんの指示でバス乗り場へ向かう。目的地「陣馬高原下」までは一時間二十分かかる。休日とあって、バスは始発から超満員だったが、皆さんすばやい行動で座席を確保できた様子。まずは第一関門突破といったところ。
終点の「陣馬高原下」でバスを降りたころには、心配していた天気もうす陽が指していた。ここから「マス釣り場」までは、未舗装の山道を二十分近く歩くことになる。パートナーとの呼吸もピッタリに、本当に目の不自由な人たちかと思うほどの速さでスタスタ登っていく。しかも楽しそうな会話がにぎやかである。
「皆さん今日は、マスを釣らないとお昼のおかずがありませんからね」現地では、谷合さんから挨拶と注意がある。特に「餌は絶対に自分でつけること」と厳重な(?)おたっしである。
竿と餌にバケツを持って、いっせいに釣り場へ。取材目的の参加だった筆者も、ここは腕の振るい所とばかりに、鉤はずしのお手伝いで大忙し。上手に顎に鉤をかけて釣っている人。引いているのがわからずしっかり鉤をのみこまれている人。釣り方はいろいろでも、あちこちから歓声がたえない。「うん、気持ち良かったー。すごかったー」もちろん、はしゃいでいるのは障害者の方だけではありません。
このあとは、釣ったマスの塩焼きと唐揚げのおかずで、持参したおにぎりをいただく。おかずにありつけなかった人は一人もいなかった。

「四季の会」の活動は
「四季の会」が生まれたのは五年前の一九九三年にさかのぼる。当時、八王子視覚障害者福祉協会(八視協)の役員をしていた石川和子さんから、歩行訓練などで交流のあった、視覚障害者福祉に造詣の深谷合侑さんに、視覚障害者の外出できる機会を作ってくれるよう、要望があり発足した。その時谷合さんは、市内に三つあるボランティアグループ(ガイドヘルパー、点訳、朗読)に声をかけて、「多摩森林科学園」でお花見会を開催した。このときの参加者は障害者九人、パートナー十七人で、月一回のペースで定期的な活動としていくことを決定。一般の人々にも声をかけて、お花見・ハイキング・野鳥を聞く・マス釣り・音楽界・ボーリング大会など、手に触れる・匂いを嗅ぐ・音を聞く・雰囲気を味わうなどを設定基準にして活動を続けて、今回のマス釣りで五十六回目になる。今年の十二月には六十回記念のボーリング大会を予定している。最近の参加者は障害者、パートナーともに二十人前後が多いようだ。
この会の特徴は、谷合さんと石川さんが代表者となっているほかは、会則も会費もなく、全員がフリーの参加で費用も各自負担。原則として毎月第三土曜日の午前十時集合、午後四時前には解散できるようなスケジュールにして、主婦を中心に誰でも気楽に参加できることが長続きの秘訣とは、谷合さん。もちろん、ガイドヘルパー未経験者の参加も自由で、当日簡単なガイドの説明を聞いて、実際に経験を積んでいってもらう。
視覚障害者を持つ人たちと外を歩くようになって、匂いのある花とない花があること、サッと見て過してしまっていた物に触れてみることで、今までになかった発見があったり、何より目が不自由という苦しみや悩みをのりこえてきた、人生経験豊かな人々から教えられることが多いと谷合さんの目は輝く。

まだまだ足りない支援制度
そんな谷合さんの一番の願いは、在宅視覚障害者の外出の機会をもっともっとふやしていきたいということである。
ガイドヘルパー制度は各地にあり、国・都道府県から補助金も出ているが、事業展開しているのは市町村単位。八王子にもこの制度はあり、予約制だが公的機関・病院・慶弔・研究会などへの外出にはヘルパーを依頼できる。しかし、文化活動に対しての支援は今のところ受けられない。こうした現状を「四季の会」などがカバーしているが、早く各自が自由に外出できる制度をと、谷合さんらは望んでいる。
さらに八王子市では、公務員試験の受験の道も閉ざされている。他市の図書館や一般事務職などで、働く場所を得て才能を発揮している視覚障害者も多数いて、仕事によっては視覚障害者に向いたものもあるので、市の改善にも希望を寄せている。

 

One Two えいと 「す」の号

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炭焼、スポーツ施設

 

スミ婆さんと、私

スミ婆さんといっても、人間ではない。高尾山のお猿さんのこと。私は猿園に就職して、13年間ずっと、スミ婆さんとお付き合いして来た。朝、出勤して園内に入り、スミの名前を呼ぶと、私の処にやって来て、ウォーと、よく返事をする。猿園ではスミが一番高齢者で、係員では私が一番高齢者。そんな関係で終わりまで仲が良かった。私は、猿というより、年上の恋人のような気持で付き合っていた。お客様がいないときなぞ、スミ婆さんと語り合いをした。話をしても、わかるわけではなく、ただ私の側に座って私の顔を見ていた。私が餌をやると、大事そうに食べている。回りで、子供や孫達が食べたそうに見ている。早く食べればと思った時、食べ物を落としてしまって、子供に取られてしまう。
スミは、島根県邑知郡須美村、伴蔵山の山奥から、東京の高尾に来た。
昭和56年8月の台風で高尾山の大木が倒れ、暁の大脱走があった。当時27頭いた猿が、ボス・バンゾウを先頭に脱走、猿山はもぬけの殻になってしまった。自然の山の中は自由だ。いろいろの木の実がたくさんある。食べ物には不自由しない。自由に走り回れる。だが、危険も多い。野生の動物がいるので、安心できない。やがて、寒い冬が来ると山に食べる物がなくなる。里に出て民家の下記や栗など食べて、その日暮らしが続いた。12月から1月にかけて係員の努力によって、次々に捕獲され、140日にもわたる大脱走事件は終わった。
スミも人間でいえば90歳を過ぎる頃より、右目が白内障になり不自由になった。99歳(33歳)頃より、急に体力が衰え、歩くにも元気がなくなった。スミ用の老人ホームを作り、その中で生活させた。私は、毎日色々の物を差し入れた。私の声がすると、スミは、ベッドから起き食べ物を待つ。両手で握り締め食欲は旺盛だった。数分語り合って、私は仕事に就つく。5ヶ月間、スミの介護をした。
ある日バナナを持ってスミの部屋に入った。だが、スミの返事は返ってこなかった。あれほど、仲の良かったスミに去られ、実に淋しかった。恋人のような気持で面倒を見てきたのに。スミも、「瀬沼のおじいさん、大変お世話になりました。何時までも元気で頑張ってね」、とでも、話したかったろう。私の手で、丘の上に墓をたて葬ってあげた。スミよさようなら。
(瀬沼 和重 記)

 

One Two えいと 「せ」の号

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銭湯、世界の輸入家具

 

多賀神社の 千貫神輿をかつぐ

都下最大の千貫神輿
「八王子まつり」に参加するのは、私にとって初めての体験だ。7月17日、舞扇の会長と共に八王子市民会館にて行われる半纏合せ(神輿渡御に参加する同好会などが、祭り当日に着用する半纏を披露し認識と確認をする)に参加。各地から神輿の担ぎ手がやってきている。「我こそは祭好き」と、誰はばかることのない見栄を張り、負けず嫌いの心根がそっくり出て、思い切り見栄を張らないではいられない連中ばかりである。その見栄が幾重にも渦巻きながら当日に向かって突き進むのであろう。氏子青年会の面々も一年かけて作る祭の仕切りが始まる。
いよいよ8月2日、祭の当日である。この日は「八王子まつり」で朝から地元の南町で雲切り囃子、御神酒所での手伝い、山車の引き回しと大忙し。その合間を縫ってやっとの思いで第二区の引渡し地点に到着。そこでクリーム色のはちまき(各区で色がちがい、年ごとに変わるらしい)を渡された。このとき、自分の心の中で「千貫神輿」を担ぐ実感がめきめきと湧いてきた。まわりを見回すと誰もが浮き足立っている様子を隠せない。
聞けば、この神輿は八王子市の有形文化財にも指定されており、明治15年浅草で建造されたと伝えられる歴史があり、重量・大きさ共に都下最大という。氏子町会は、元本郷町会・元本郷町栄和会・元本郷町一丁目・八幡町一・二丁目・八幡上町・大横町・平岡町・本郷町・八木町・追分町・日吉町・千人町の12町会で構成されている。例大祭における神輿渡御神事は江戸時代からの伝統を継承しているだけに、各町会も神輿や山車を所有していて趣の深い地域である。
西の方向に高張り提灯の隊列が見えた。氏子町会の高張りだ。12個の提灯が穏やかに揺れながら近づいてくる。誠に優雅な光景である。高張りの持ち手は、誰もが胸を張り「我が町一番」と誇示する様子がうかがえる。

ハナ棒目当てにしのぎあい
本来、神輿は神社の縮小版である。いま、そこに現れた勇姿はそれを覆す代物としか言いようがない。基礎に乗せればそのまま神社と言えそうである。担ぎ手の掛け声とともに津波のように押し寄せてきた。とにかくでかい、圧巻である。通常は地元町会であったり、氏子となっている神社の祭だからこそ、血が騒ぐ。したがってよその街の祭には、いいところ冷淡、せいぜいが無関心、ときには、あからさまな嫌悪感を示すのが祭りの当事者たちの当たり前のありかたである。しかしこの神輿を見た途端、その思いが吹っ飛んでしまう。その迫力は何か、伝統なのか歴史なのか大きさなのか。おそらく伝統と歴史が作り上げた大きさであろう。それが魅力で遠い街から多くの人が担ぎ手として集まり盛り上がりを見せるのだ。
我々、舞扇が担ぐ2区への引き渡しが始まる。殺気立った空気が回りを囲む。そこにいる数百全員が同じ目標に向かって邁進し、神輿に群がり、見栄を張る。誰もが担ぎたいのは、神輿の前方のハナ棒である。ここがいちばん目立って、沿道の「ギャラリー」の声援も飛ぶ。そこだけを目当てに来た連中の凌ぎ合いが始まる。毎回のことである喧嘩だ。人込みに揉まれながら罵声を浴びせあい、ときには殴る。その連中の目的は神輿担ぎなのか、喧嘩なのか、おそらく喧嘩7分に、担ぎ3分程度であろう。そんな人ほど決まって人相が悪い。
距離は300メートル弱。あっというまに3区への引渡し地点だ。短い距離だけに集中して担げる。時間にして30分程度、担ぎ終わって気がつくと声が枯れ、疲労で膝がわらっていた。なんともいえない充実感が心に残る。神輿を離れ後ろを振り返ると、そこでもまた喧嘩が始まっていた。

・上の祭り=多賀神社神幸祭
・下の祭り=八幡八雲神社の祭礼
・神幸祭り=年一度、神社社殿より出でて、氏子町内を廻る分霊式(お札をさずける)
・高張り提灯=町内の名称を大きな提灯に表す
・雲切り囃子=山車の初囃子の曲名
・舞扇=神輿同好会名(八王子)
(神輿同好会 八将 舞扇 瀬沼 明 記)

 

One Two えいと 「そ」の号

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こだわりのそば処・染物

 

おばあちゃんの打つそば 田中まち子さん

八王子の西、小津町を訪ねてみた。②、3年前訪れた時に、確か白い花のそば畑があったことをたよりに、川原宿の交叉点を北へしばらく行って、西に曲がり山間の道を奥へと向かう。
澄んだ空気に快さを感じながら、小津川に沿って、西奥へと進んだ。静寂な景観に囲まれ、時が止まったかのように思える。やはり小津の里はいい。
知人の青木さん宅を訪ねてみた。
忙しいはずなのに急な訪問者を、快く迎えてくれた。さっそく、「この近所でそばを打つ人いませんか」と聞いてみた。青木さんの奥さんの反応は早かった。
「力石の野沢さん……狐塚の門倉さん……金子さん……」ポンポンと名前が飛び出してきた。
「田中さんのおばあちゃんが今でもそばをつくるそうですよ」
田中さんの家は、小津町でも奥の方にあった。家の前に田んぼがあり、六月末には毎年、ホタルが飛び交うそうだ。大きな家屋は少し上に建っていて、広い庭の下にはしいたけのほだ木が何百本と積まれていた。
にこやかなお顔で、田中まち子さん(80歳)ががすでに田のはじに立っておられた。ご主人の一三さんも横の作業小屋で、仕事をされていた。初対面なのに、ご夫婦はとても優しく迎えてくれた。私はずっとずっと忘れていたこのような自然の優しさに心を踊らされた。
そば打ちは田中家に嫁いだ頃からしゅうとめさんに教わりながら始めたとのこと、はじめはうまくいかず、何回失敗をしたそうだ。しかし、すぐコツを覚え、多い時には子供を背負いながら、一升五合もそばを打ったことがあった。まち子おばあちゃんのそばづくりは、テレビでやっているような、そば粉何グラムに、小麦粉……水は何㏄というような数字ではない、すべて「カン」である。指先で、手のひらで……そして自分の目で培ってきたカンでつくる。水加減も、こね具合も、ゆで具合も。
そばは一三さんが四畝の畑でつくる。8月末、諏訪の祭りの頃に種蒔きを、霜の降りる前の11月頃刈りとる。
食べる分だけ石臼でひいて「絹ぶるい」にかけ、粉と皮を分ける。
そばを打ち始めてから、できあがるまで1時間ほどであるという。
明治37年と墨で書いたのし板とのし棒を見せてくれた。檜でできているのし板は長い年月の痛みで今では使うことができないが、欅ののし棒は今でも光沢があり、現役である。まち子さんはこののし棒を使って、正月などにはそばを打つ。
若奥さんが教えてくれた「おばあちゃんのそばはコシがあっておいしい」
一三さんも、ニコニコ顔でそれを聞いていて、その美味しさを否定しなかった。
この日、おばあちゃんは「本にのるなんて」と言って、恥ずかしがってそばをつくってくれなかった。
いつかまた訪れて、そのときこそ、まち子おばあちゃんの手打ちそばを食べさせてもらおうと心に決め、小津の里を去った。
(佐藤 栄 記)

 

One Two えいと 「た」の号

One Two えいと 「た」の号

 

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高尾山大特集

 

1億年の歴史を秘めた高尾山

1924年、世界の最高峰エベレスト山の登頂をめざし、頂上間近で霧の中に消えたイギリスの探検家、L・マロリーが「山になぜ登るのか」と聞かれて「山がそこにあるからだ」と答えたのは有名である。では「その山はなぜそこにあるのか」「高尾山はなぜそこに……」。この問いへの答は、高尾山を歩いて岩石や地層を観察することによって解けてくる。
高尾山に限らず地球上の全ての山々は、太古から同じ場所に変わらぬ姿で存在してきたわけではない。高尾山やそのまわりの山地は、1億年ほど前には海の底にあった。この海に溜まったぶ厚い地層が、その後の度重なる地殻変動で持ち上がり、山地を作ったのである。高尾山を取り巻く海でできた地層は、小仏峠の名をとって「小仏層群」とよばれている。
高尾山を歩くと、この小仏層群の岩石があちこちで目に入る。観察に一番よいのは、ケーブルカーの路線の左側の沢づたいにたどる自然研究路6号ルートだ。登るにつれて、灰色のかた砂岩や、薄く割れる黒っぽい粘板岩が交互に現れてくる。粘板岩の中には地層が受けた強い圧力で変成した千枚岩とよばれる部分もある。しかもこれらの岩石からなる地層全体が、ほぼ垂直に近い急傾斜で突っ立っている。地殻変動のすさまじさを物語る何よりの証拠と言ってよいだろう。
高尾山の頂上を通る北東―南西方向の断面で、この地層の傾きをまとめてみると、いくども褶曲を繰り返していることがわかる。面白いことに、褶曲の谷の部分(向斜という)が高い峰をつくり、褶曲の山の部分(背斜という)はむしろ削られて低い谷間になっている。両側から押されてかたくしまった向斜の部分のほうが、侵食に耐えて高く残り、引き伸ばされてもろくなった背斜の部分は早く削られて低くなってしまったのである。
さて、小仏層群の時代は、地質時代区分でいえば中生代白亜紀、あの恐竜類が地球を支配した時代である。ところが、小仏層群から化石はほとんど出てこない。少なくとも高尾山からは全く見つかっていない。植物や動物の多様さで有名な高尾山が、地学的にいまひとつパッとしないのは、そんなことにも原因があるようだ。しかし、である。ひょっとして何か珍しい化石が見つかる可能性なきにしもあらずなのだ。1億年の歴史を秘めた高尾山に、さらに化石探索という大きな夢をたくしていくおではないか。
(小森 長生 記)

 

One Two えいと 「ち」の号

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彫刻

 

浅川地下壕 今に残る戦争の爪跡

突然の掘削命令
あれほど災禍をもたらした太平洋戦争も、終結してはや54年あまり、月日の経過と共に、当時を知る者も高齢化がすすみ、記憶も薄れつつある現在、いま書きとめておかねば、永久に忘れ去られていくのを憂いている。
戦時中の忘れがたい出来事、私の場合は2つある。その1つは戦争末期に八王子旧市の八割を焼いた「空襲」のこと、あと1つは今回のテーマ「浅川地下壕」のことである。
特に浅川町(現在の高尾町)在住者にとり、国策とはいえこの大事業遂行のため山林を手ばなし家業をたたみ、労力の全てを提供した結果が、今でも廃墟として残っている、堪えられないことであろう。
昭和19年夏にサイパン島守備隊全滅の悲報が。続いて東条内閣総辞職が行われた。その直後の9月から地下壕の造立がはじまり、翌20年夏の終戦の日までの僅か1年間で栃の収用・壕の設計・掘削から利用まで、軍民総力を挙げて実施した。
戦局の悪化が伝えられるその頃のこと、当然ながら昼夜兼行の突貫工事、現在のような優れた土木機械があるはずもなく、もっぱら人海戦術に頼っての工事でありながら、1年間で完成させたことには驚嘆するばかり。

現在の落合・初沢地区
中央本線・浅川駅(いまの高尾駅)前から甲州街道(ルート20号)を南西に1.5キロ行ったところの「落合地区」と、東へひと山越した「初沢地区」を結んだ線(イ地区)を最大の壕とし、少し遅く着工した「金毘羅山下」(ロ地区)、そして「浅川中学校裏山」(ハ地区)が掘削地として指定された。
工事の主体は「東部軍」、目的は「地下倉庫の造立」となっており、最大のイ地区だけでも有効面積1.2000平方メートルで、格子状にそれぞれ八坑をうがつという壮大な地下壕。会社や公共の防空壕に比べ、遥かに巨大なもの、一種の地下都市の出現である
掘削業者は、かの東海道本線・丹茄トンネルの何工事を完遂し、名をはせた精鋭集団2~300人が陣頭に立ち、そして土砂の排除や資材の運搬に動員された人員は、5000人とも7000人とも言われる。特に朝鮮半島あるいは台湾からも多数の強制連行者が工事に従事させられた。この人たちの労力がなかったなら、期間内に完成しなかったと思っている。

目的は地下大本営か
当初は「地下倉庫」とのふれこみであったが、誰言うともなく「地下大本営」(天皇を奉じ、戦争を指揮するための地下最高本部)との噂が飛んだが、関係者はこれを否定。
しかし本土決戦の可能性もある今後に備え、東京の中心部に比較的近く交通至便なこの地に“緊急避難”することを念頭においての施設造りではなかったろうか。 戦後知ったことであるが、大本営予定地は浅川のみにとどまらず、全国各地に設けられ、そのなかで最も有力視されていのが長野県松代であった由。その遺構は今でも保存されている。
戦争末期の私は十代の子供であったが、元本郷町の自宅から父と共にリヤカーを引き、浅川町のはずれにある知人宅へ、薪を引取りに何回も行ったが、辻辻に警備の人たちが目を光らせていた。知人に聞いたところ、「何か軍の施設らしい」と言っただけで口をつぐんでしまった。

軍需工場に変換
昭和19年11月、中島飛行機武蔵製作所が米軍機の爆撃により壊滅的な損害を被った。本土決戦近しと言われている今、座視している時ではないと協議の結果、工場の疎開先を浅川地下壕に絞って軍管区に持ち込んだ。
結局翌昭和20年2月、軍は地下倉庫案(実は大本営案?)を撤回し中島飛行機のエンジン工場として許可、同時にロ地区とハ地区の掘削が開始された。
地下壕が次々と完成するなか、中島飛行機の工作機械等が続々と運び込まれエンジンの生産に入った。丁度厳冬期にあたり壕内は低温多湿で火の気はなく、そのうえ喚起は不充分で体調を崩す者が続出したという。生産性の向上を重視した結果、環境への配慮を怠った故のマイナスで、予想しなかった由。
はじめ月産500基を見込んでいたが、生産態勢が整ったのは五月過ぎ、しかし3ヵ月後の終戦日までに僅か10基を造ったのみとは意外な感じがする。

地下壕はいま……
さて現状はどうなっているのか、百聞は一見に如かずとて、猛暑が続く9月のはじめ現地へ飛んだ。昭和42年に京王高尾線(北野――高尾山口間)が開通、路線は地下壕の至近距離を通っている。
高尾駅の西に2つトンネルがあるが壕入口はその中間点の崖。以前は車窓から大きな黒い穴が望めたが現在は雑草が生い茂るだけで不明。
次はバス停「落合」で下車し、御室橋を渡り前期の地点へ行ってみたが、丈なす草木に遮られ何等の痕跡も見出せなかった。
今度は少し上手の落合公園から入ってみるが柵で囲まれ通行止め。幸運にも管理者に会うことが出来、錠を外してくださり、話も聞けた。
小道を辿ると壕入口が2ヶ所ある。いずれも高さ3メートル、幅4メートルにも及ぶ半円形の坑口は、大型ブロックで塞がれ、内部をうかがい知るよしもない。
最後に落合側から山を貫徹、東側へ抜けた初沢口を見る。高尾駅南口から初沢川沿いの道を1.5キロさかのぼり、初沢の民家が途切れ、高乗寺分になった道の端に問題の壕入口があった。通りからひと足入った崖面にポッカリ口をあけているのは確かに坑口。
高さ幅共に2.5メートルほどの穴に荒い鉄格子がはめこまれ「立入禁止」の表示がある。坑道は肉眼でも2、30メートル先まで見渡せる。
素掘りながら小型自動車も通せる程の広い通路には、剥落した岩片が散乱、誠に鬼気迫り心も寒くなるような風景であった。

どうする地下壕、考える時
戦い済んで半世紀あまり、あの1年間、軍民一丸となっての大事業・浅川の地下壕は一体何だったのか。巨大戦艦大和は海中の藻屑となった。浅川の巨大地下壕はそのままの姿で眠っている。
さてこの施設、眠りを醒まさない方がよいのか、あるいは戦跡の1つとして保存し活用したほうが有効なのか、それぞれ意見が異なるところ。
まず山麓にお住まいの皆さん方の安全を最優先し、地下壕の今後のあり方を考える時が来たのではないかと思っている。
(竹内 昌夫 記)

 

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つくる

 

市民が作った 「高齢者介護基本条例」

自治体のサービスはどこが良くて、どこが悪いのか。新聞の記事であちこちの町の介護保険への取り組みが紹介されることが多くなり、私達市民の目にも、だんだん見えてくるようになりました。
「将来は、市民サービスの善し悪しで、住む町を選ぶようになるでしょう」とは、去年、M市の職員の方が話された言葉です。そのM市は市政への住民参加のシステムを作り、オンブズマン制度を導入し、介護サービスの無料枠を独自に広げるなど、“住みたい町”として登場してきました。これがお店なら、さしづめ行列のできるM商店ということになるでしょう。
しかし、“まち”の場合、生活の場であり、土地に愛着があったり、私のように住宅ローンで縛られたりと、簡単に選びかえることができません。それに、「残念ながら、私、サービスの悪いH市の市民なんです」なんて、情けないことは言いたくないですよね。
一昨年夏、福祉関係の地域グループや生協などの団体が「介護保険」や「高齢者福祉サービス」についての要望書を八王子市に出しました。新しく始まる八王子の介護保険づくりに、市民も参加したいとか、福祉の充実を求める内容のものです。
しかし、市からはきちんとした内容の回答がなく、介護保険づくりをする市の委員会は市民には非公開。
そんなことから、市民団体や問題に関心のある個人が連絡を取り合い、集まりました。そして、高齢者介護についての“市民条例案”をつくり、全国でもはじめての直接請求をすることになったのです。
介護保険は40歳以上の市民全員から保険料を徴収しますが、介護を受けられるのは、審査で「要介護」とされた人だけです。不自由な生活をしながら、介護認定から外されてしまう人や、介護保健サービスの枠だけでは介護が行き届かない重度の人が出てくることが予想されます。また、要介護にならないための予防の視点も落ちています。
そこで市民案では、介護保険に限定せず、高齢者の生活全体をカバーできる「介護条例」が必要と訴えました。内容は、
①高齢者の権利・生活の質の確保
②市民参加で運営・必要な情報の公開
③市と事業者の責務の明確化、介護サービスを評価し公表する
④オンブズパーソンの設置
⑤一人暮らし高齢者などと連絡をとる見守り担当者を小さいエリアにおき、孤独死の悲劇などが起きないよう助け合う“見守り訪問員”制度
などです。
この市民条例の直接請求には、昨年9月21日から1ヶ月に八王子市民有権者27000人の書名が集まり、無事、市長に提出。現在八王子市議会で継続審議になっています。
いよいよ4月から始まる介護保険のために、市は保険料や手続きなど介護保険の詳しい内容の「条例」を産G夏議会で決めなければなりません。市議会議員の方々や市長さん、介護保険対策室長などの方々の考えが示される時です。
このとき、27000人書名を集めた“市民条例案”の内容が採用されれば、市民はいろいろな形で協力を惜しまないでしょう。誰だって必ず歳をとるし、誰かの役に立てることを喜びと感じる人はとても多いはずだからです。
もし、市民の希望があまり盛り込まれなかったような場合は、その理由を尋ね、検討し、市民の期待と現実のギャップを埋めていく努力が必要になってくるでしょう。なかなか大変そうです。
しかし、この半年、八王子の市民は1つの目的に向かって話し合い、考え、条例までつくれました。27000人の夢の力を、1人1人が育てていけば、“住みたい町”が実現することは、間違いないと思います。
(石原 郁子 記)

 

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転職・転業

 

天然記念物「真覚寺の蛙合戦」蛙の生態および繁殖地

八王子市には、大変珍しい「天然記念物」が存在します。
何が珍しいかと言えば、「蛙の生態」です。もともと、蛙の生態は知られていることが少ないのですが、ましてや蟇蛙となると春先の彼岸過ぎの生温かい日から一週間ほどの期間に池に集まって産卵する。それ以外は床下や物置小屋の隅で、時に見かける程度しか知られていません。
つまり「生態はほとんど不明」です。
産卵に集まった蛙は、池の水が温まり易い浅瀬で産卵に入ります。ところが大体の場合「雌」の数より「雄」が多く、数匹の雄が雌の前後左右から卵の帯を押し出すことがしばしば見られます。時には「雌」は数多くの雄に抱きかかえられてバレーボールかバスケットボールほどにもなって池の中に浮き出します。こうした固まりが何個も池に浮き、この固まりにさらに新しい雄が抱きより、すでに抱きついている蛙の後ろ足で激しく撥ね飛ばされます。これが「蛙合戦」と呼ばれた生態の1つです。多分、このことが天然記念物に指定された要件だったと思われますが、詳細は不明です(私はこの蛙の生態を真覚寺で見たわけではありません。もっと山間の池で見たものですが、たぶん同じ光景が繰り広げられていたものと思います)。
さらに「池」も指定物件になっていますが、そのことを知る人はほとんどいないのが現状です。
昭和37年から40年まで、故金井郁夫先生の指導の下に市内の中学校生らが蛙の追跡調査や生態調査をしたことがあります。真覚寺で放した蛙が一年後、富士森公園のすぐ近くで発見されましたので、数キロ移動することが確認されましたが、全体の発見例が少なく、新しく確定できる生態はなかったようです。とにかく昭和40年代に入ると急激に蛙の数が減り始め、最近では産卵もほとんど見られなくなりました。
しかし、現在も天然記念物の指定は解除されていません。こうした記念物を残しておくことも必要でしょう。もっとも、もう「旧跡」に改めた方が適切かもしれませんが。
というのも、「真覚寺の蛙合戦」は、有名で訪ねる人が未だに絶えません。これは、今から200年程前に、塩野適斎や上田孟晋が著した書籍にある「蛙合戦」によるところが大きいと思われます。やがて、このことは口伝えに「江戸」にも伝わっていったと言われます。
確かに、真覚寺の池の南、高台に池の方を向いて「蛙塚 芭蕉」と刻まれた石塔が建てられています。ただし、何時、誰が立てたものか説明はありません。「江戸時代のものだろう」というのが、近くの方の話です。昔から「有名」だった証拠とのことです。
ですが、蛙は何時でもいて「合戦でもしている」と考えている方が非常に多いのには驚かされます。
(もりはら かつみ 記)

 

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道場

 

八王子の峠

八王子市は、山と丘陵でかこまれた盆地のなかの都市である。
市域の西端にあたる市の最高峰醍醐丸を基点として、東南方向には陣馬・景信・高尾の稜線がつらなり、東北方面へは市道山・今熊山へとつづく尾根がのびる。高尾から東方へは市域の南を画する多摩丘陵へとつづき、今熊山からは東へ向かう加住丘陵が同じく市域の北の境界となる。最高峰でも高さは867メートル、南北の丘陵は200メートルほどだから、盆地といっても、それを日々の生活のなかで意識するほどに、山が迫っているわけではない。
八王子が盆地のなかの都市であることを実感するのは、これらの市域を囲む稜線を越えて市の外へ、あるいは隣の市や町からわが街へと、峠越えをするときだろう。それらの峠越えの道は、廃道になったものも含めて、30ほども数えることができる。そのうち、いまでも歩くのにふさわしい2、3の峠道をご紹介しよう。

小仏峠
江戸時代の甲州街道が越えた道。大垂水峠に新道が通じたため、旧道の景観が残る。JR中央線高尾駅から峠の麓までバスが走るが便数が少ない。駅から歩きはじめ、中央線のガードをくぐってすぐ小名路で右に分かれる旧道に入り、かつての駒木野宿・小仏宿の風情を味わいながら峠越えにかかるとよい。峠からはそのまま昔の道をたどりJR中央線相模湖駅まで行く。わずか一駅間の歩程ながら、ゆっくり歩いて一日コース。

明王峠
いわゆる武相国境稜線上の、陣馬山と堂所山の間にある。上恩方町上案下からオキナツル沢をさかのぼり神奈川県相模湖町与瀬へ越える峠。江戸期から人々の交流の道として使われてきた。峠の頂きに不動明王尊を刻んだ石碑が建ち、その碑を守るように桜の古木が枝を伸ばしている。南に開けた眺望も素晴らしい。JR中央線相模湖駅から与瀬神社をへて矢の根尾根を登れば峠に立つ。あとのコースは、陣馬へも、高尾へもご自由に。

奈良古峠
明王峠のすぐ西側にある。これも武相国境稜線を越えて人々が交流した道。ここから奈良子尾根が西南に派出しており、神奈川県藤野町栃谷に通じる。明治・大正期には、栃谷の人々が馬に木炭を三俵ずつ両方に背負わせ、自分も二俵背負って、八王子に越えたという。古い峠道の味が残る。比較的長い道のりなので、下山路とするのがよい。栃谷からは静かな谷沿いの道を、落合・中里などの集落をへて、JR藤野駅へ出る。

日向峰峠
上川町の畳ケ原から五日市戸倉へ越える小さな峠。檜原村から八王子に出る道として古くから歩きつがれてきた。日向峰通りと呼ばれる尾根筋を行く道で、高低差が少なく、歩きやすく、味のある道。八王子側は、川口川の源流部にあたり、峠を越えれば五日市よりも上手の秋川畔に出る。今はひっそりと忘れられた峠道で、近くの今熊山や金剛の滝などをめぐる散策と組み合わせれば、この峠を越える魅力も増すだろう。
(馬場喜信 記)

 

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なかま

 

納豆づくり70年 継木納豆の小堀栄養納豆店

「納豆、3つちょうだい」と元気な声でお客さんが入って来た。40半ばぐらいの女性だ。「ありがとうございました」と、これまた大きくはっきりした言葉で小堀さんが答える。10月下旬、土曜日午後、小堀栄養納豆店のひとときである。
桜通り中央線踏み切り横、天神公園のそばに店を構えて43年、親の代から数えると、もう70年ほどになる。納豆づくり一筋の専門店である。

生きている納豆
小堀さんの店は、今でも納豆を経木で包んでいる。三角の形をした昔ながらの経木納豆である。松の木を薄く削った2枚の経木を折り曲げて、その中に納豆を入れている、あのなつかしい納豆である。
「納豆は生き物なんです。息ができないと死んじゃうんです」と店主の小堀誠一さんは話す。
「空気を通す経木で包むのが一番です」納豆菌は経木の中で熟成して」、うま味を増やすのである。
もう一点、小堀さんはこだわりつづけていることがある。それは材料である大豆を、昔ながらの蒸して納豆をつくる点である。一時ボイラーを使用したこともあったが、、やはり地釜の蒸気で蒸してつくった方が、大豆はやわらかく、甘みのあるものにできあがるという。店内に置いてあった蒸した豆を食べさせてもらった、なるほど柔らかく甘い。

思いでの弁慶納豆
「なっと、なっと、なっとうおお」。昭和20年から40年にかけて、朝早く、納豆売りがまちを廻った。大きくのびる声で、通りから通りへ、路地裏から庭先まで自転車に納豆箱をのせて。夕方に来る豆腐売りと同じように、町の人たちはそれで時を知った。その納豆売りの中の1人に、「弁慶納豆」と自ら名をつけて、元気よく納豆を売っていた人がいた。母から頼まれ、何十円かを手に握り締め、その納豆売りのおじさんを追いかけたことを遠い記憶として覚えている。その「弁慶納豆」屋さんの売っていた経木納豆は、小堀納豆で作ったものであったと教えてもらった。

納豆の食べ方
納豆好きの人は多い。自分流の納豆の食べ方を、かたくなにもっている人も多い。他に自分と同じ食べ方をしている人がいても、これこそ、私の食べ方であると自負しているのである。まるで、納豆のあの粘る糸にからめ取られたかのように。
納豆のうまい食べ方とは何か、小堀さんに聞いてみた。
「そうですね、あたしはよくかきまわします。少し大き目の器に入れ、納豆をていねいに、ていねいにこねます。初めは静かに、そして段々と勢いをつけて」同感と思いながら、力を入れて聞く。
「ネバネバが出て来たら、しょう油を少量だけさし、削りたての鰹節とネギを加え、さらに私は卵の黄身半分を入れるんです」隣におられる奥さん、勝子さんの顔がこぼれる。「また、かきまわします、粘りが泡のようになり、光沢が出て納豆がその泡に埋もれるまでかきまわします」「すぐにアツアツのごはんに多目にかけ、口いっぱいに頬張ってたべる、これが私の食べ方です」聞いているだけで空腹感を覚えた。

日本特有の健康食
納豆は健康食品である。納豆は製造段階で添加物を一切使わない。というのは、添加物を用いると、納豆菌の成長が途中でストップしてしまうからである。納豆は消化の良い高たんぱく質のアルカリ食品である。また、近年研究が進んでコレステロールを洗い流すリノール酸や、新陳代謝を促進するレシチンがふんだんにあることがわかったりして、テレビなどでよく取り上げられている。そう言えば、小堀誠一さんの顔の色ツヤが良いのは、この納豆の効能からきているのだろうか。
ここ数年、納豆消費量は全国規模で見ると、大幅に伸びている。元来、納豆嫌いの多い関西でも需要がふえていると言う。自然食品、健康食品ブームの波を受けてである。
「私の店の売り上げは、反対に減っちゃってますが……」小堀さんの声が少し沈んだ。「でも、私は作りつづけますよ、大量生産の大手に対抗し、手作り納豆を」張りのある明朗な口調で話してくれた。小堀さんご夫妻と2人のパートさんにエールを送りたい。
(佐藤栄 記)

 

One Two えいと 「に」の号

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ニュータウン

 

日光・鎌倉・小田原・甲州など 古街道

はじめに
最近、日本の歴史で街道が注目されている。八王子の町にも甲州街道や、横浜を結んだ横浜街道、それに八王子千人同心が日光勤番で利用した日光街道がある。ところが、これらより以前の道については余り知られていない。
いわゆる古道については、江戸時代の後半に書かれた『新編武蔵風土記稿』や植田孟縉の『武蔵名勝図会』等の地誌に記されている。そこには鎌倉街道や旧甲州街道、小田原道や旧日光街道や八王子城下街道が登場する。それらの街道について現在どのように活用されているのかをまとめてみよう。

鎌倉街道と旧甲州街道
鎌倉街道、鎌倉古道などといわれている歴史の道は、「下の道」「中の道」「上の道」と分かれている。「上の道」は鎌倉から町田・府中・所沢・花園・高崎へと続く道である。この「上の道」が町田から西へ分かれて、大戸・狭間・長房・美山・戸沢・上川・網代・吉野・名栗・秩父へと続き高崎で合流する道がある。この道を鎌倉古道「山の道」と研究者は呼んでいる。この道について『新編武蔵風土記稿』の「上椚田村」で次のように記している。

又鎌倉街道と云あり。小名原宿の南裏を一条せり。北の方下長房村より南の方下椚田村に達す。ここは天正の比(ころ)八王子城より相州鎌倉への古道なりと云

これに対し、旧甲州街道については、『武蔵名勝図会』では「元の甲州街道は南裏にあり」(「八王子十五宿」)と記している。現在の中央線の南側を西に向っている道で、本立寺・金剛院・第七小学の北側を通過している道路を指している(『八王子郷土資料』)。
だが、この道は甲州街道の本流ではないようだ。本流は現在の滝山街道から五日市街道・桧原街道に沿った道で、小河内で青梅街道に合流し、西へ大菩薩峠への道である(『五日市町史』)。
それに対して小仏峠越えは往来の道ではあったが間道で、武将が利用することはほとんどなかったという(『武蔵名勝図会』)。事実、永禄12(1569)年9月、武田信玄が滝山城攻めを敢行した時、武田勢の小山田信茂が小仏峠を越えて廿里(とどり)の合戦になった時、滝山勢は虚を突かれた形で敗退した。このことが後ちに滝山から元八王子に城を移す一つの理由になったというが、旧甲州街道は大菩薩峠越えが本流であったのである。

小田原・日光・八王子城下街道
小田原道は、後北条氏の本拠相州小田原へ通じる道である。『武蔵名勝図会』では「元横山村」で次のように触れている。

中央に南北の故道あり。当村大義寺境内の隅に四筋に分かれる衢(ちまた)あり。この道は往古より相州小田原筋より滝山城地并に川越筋、或は北国筋より小田原道なり

この道は現在横山町の大義寺西脇から暁橋を渡りそのまま直進して鵯(ひよどり)山の尾根で日光街道に合流、急坂できびしい道路である。南は子安の刑務所前通りに続いている。
この小田原道は旧日光街道でもあった。『新編武蔵風土記稿』の「小宮領中野村」に「又古道一条あり、南より北へ達す古の日光街道なりといへり」と記している。この古道は、「慶安(一六四八―五二)の頃より八王子町より日光道の新道を開かれたれば、いまこの道は農人樵者の野径となれり」(『武蔵名勝図会』)と変わってしまった。
慶安五(一六五二)年六月、千人同心は日光火の番を命じられた。その年(承応元年)の九月、日光勤番の道中が松山・佐野経由になり、ここに新しい日光街道が成立した。
ところで、大義寺の西端で小田原道と交差している道が八王子城下街道である。この道について『武蔵名勝図会』は前掲の「元横山村」で次のように記述している。

東は新町より西の方、横山町を貫いて夫夫より本郷村を経て水無河原を越えて、横川村より元八王子へ行く古之八王子城下の往還なり

としている。同じ本の「小門宿」でこの往還について、「八幡宿北裏、本郷宿にあり。往古はこの道筋を八王子城下街道と云」と書いている。現在この道は大義寺前を西に進み、もとの八王子警察署の前を通り、平岡町と本郷町を分けている通りで秋川街道に突き当たっている。
現在、新しい姿になった往昔の古道を通る時、昔への感興にしたるのは私だけではなかろう。
(沼 謙吉 記)

 

One Two えいと 「ぬ」の号

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塗る

 

縫う―和裁ひとすじ 宮本多恵子さん

「ぬ」の号にちなんで「縫う」を連想したとき、縫い物の達人が高尾におられると聞いて、ぜひお会いしたいと思った。
その方、宮本多恵子さんを、からりと晴れた気持ち良いある日曜日おたずねした。
小柄な背を少しまるめて座につかれた宮本さんに縫い物を始めたキッカケからお聞きする。
「昔はね、女学校を出るとみんなお裁縫を習うのが当たり前だったんですよ」
宮本さんは大正3年生まれの87歳。女学校を出てから2年間和裁の専門学校で勉強され、芸者、はんぎょくのものまで縫って、家中の一年間の縫い物を出来ることが目標だった。
母親を早くになくしたため、それは現実となり、男物は自分で勉強しながら縫ったとのこと。
当時の風習として、男物はすべて“重ね”といって2枚重ねて着る。冬は綿入れの下着に袷の上着。たとえば大島と唐桟(とうざん)織り、それに外出は、はかまをつける。つけないときは“着流し”という。その上に羽織を着る。
夏は、塩沢に麻の長着、絽のはかまに紗の羽織など。
何人もの家族の縫い直しと新調は大変な労力だったと思う。筆者の母も縫い物をする人だったのでその姿と重なって見えてくる。
おけいこ事として、他にお茶、お華、仕舞い、日本画、お習字を習ったが、道具のいらない縫い物を仕事にしたと明快におっしゃる。
結婚をされたあと、八王子に転居して来たのが45歳で、ある日、しにせの呉服店“伊勢屋”さんに買い物に行き「仕立ては?」と問われ「自分で縫います」と言ったことから伊勢屋さんの仕事をすることになった。
ちなみに一枚の着物にどの位時間をかけるのかおたずねすると、「1枚に2日みて、1日半で仕上げて、あとの半日で家事をします」と、こともなげにおっしゃるのには、どう頑張っても3日は掛かる筆者はびっくりしてしまった。また、一番お好きなのは、長着だとのこと。着物を縫うときは、その布を織った人のご苦労を考えて、大切に扱おうと思いながら縫うという言葉には重みがあった。
以来35年間縫い続けるが、「一番楽しかったことは」の問いに「羽生さんのお召し物を縫わせていただいたことです」と嬉しそうに目を輝かせておっしゃった。
将棋の羽生さんは八王子の方で、18歳でプロデビューするときの最初の着物から、ずっと宮本さんが縫い続けている。「NHKの紅白歌合戦の審査員をされた時の白大島もわたしが縫ったの」という時のお顔は、自慢の息子の話をするときの母親のように幸せそうだった。羽生さんの姿を見るためにはやばやと衛星放送のアンテナをたてて、ご近所に驚かれたそうだ。
羽生さんが結婚されて呉服屋が代わってしまったとき、宮本さんは80歳。“伊勢屋”さんの仕事をやめる決意をなさる。「ひとさまのものを扱うので、間違いがあってはいけないので……」。
お聞きできなかったが、はたして何千枚縫われたのだろう。
おかしかったのは、洋裁もなさるそうだが、「私の洋裁はくじら尺なんです」とおっしゃる話。「人の背中は洋裁も和裁も同じでしょう。男は7寸、女は6寸5分(後ろ幅のこと。背縫いから計る)」と言って「くじら尺大好き」といたずらっぽく笑う。
今はまわりに迷惑をかけないで死ぬのが夢、と言いきって毅然として生きておられる姿に時の経つのを忘れるひとときだった。
(本間純子 記)

 

One Two えいと 「ね」の号

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練る―地飴やさん

今年一番の暑さの日、八王子の街を駅から北に歩いて甲州街道を越えると、そこは元横山町。道路から少し入ったところに、2枚の曇りガラスの引き戸に「田中製菓」と記された地飴やさんの工場がある。こちらはスタッフのMさんと2人づれ、Mさんとここのご主人田中さんとは幼友達だそうだ。「ね」の号にちなんで、「練る」ということばから、飴づくりを連想した私達は、今では八王子に数件しかない地飴やさんの1つ、田中家を訪ねた。
ただでさえ暑い日、工場の中の騒音と熱気はすさまじい。部屋に入るとすぐ、刺激的な匂いがする。「これはなんですか?」、覚えのある香りを感じて尋ねると、「プロポリスです」という答えが返ってきた。本物のプロポリスがたっぷり入っているのだと思った。
しばらくすると、直径30か40センチメートルくらいのあつあつの飴の渦巻きを、2人の若い男性が手袋をした手にとって、金属製の平面の上に投げつける。そこで熱かった飴が少し冷えるのであろう。それを今度はオートメーションの器機にかける。切ったりつつんだりして飴が出来る。広い部屋で段取り良く作業が進んでおり、かなりの速さで飴ができていった。梱包の方は最後の行程で、女性が10人ほどで受け持っていた。
昔は水飴を煮詰めたものを冷却しながら手で練って手でとって成型したが、今はすべてコンピュータで制御し、手で練る行程はない。また昔は「手引き」といって木にかけて練ったが、今は全て器機でやっている。大手の会社との違いは、大手はボイラーでやるが、ここではうま味を出すため火を入れる。昔は25キロ缶の水飴を仕入れていたが、缶の廃棄が難しくコストがかかるので、タンクから買うようにした。
田中さんは、さっき飴を投げていた2人を見ながら「倅です」と言った。一家で1つの仕事にうち込んでいる光景は、私の目には新鮮に映った。
そしてまた器械をさわりながら、「1台で1000万円以上するんですよ。あちらのはもっとします」という。
熱気を帯びた工場から、急にクーラーの利いた部屋に通されホッとした。つくづく仕事の大変さを思い、3代目社長の田中基義さんに飴つくりの話を聞く。
「平成3年に、亡くなった父の後を継いだ。父は全国菓子大博覧会で1位をとった人で、その父が亡くなった当時は世間の風当たりが強く、どうしても自分も全国1を獲得せねばと思った。そして金沢で開催された第22回全国菓子大博覧会で名誉総裁賞をいただいて、技術部門で日本一となり面目を一新した。名前も『田中製菓所』から『田中製菓』とした。その次の年は出品を辞退したが、結局理事長にすすめられて出品し、再度賞をいただいた。今の正式な会社名は『株式会社タナカ』。
初代隆義が創業したのは大正13年頃で養子に入った人だった。2代目の父修造はそこに働いていた母と結婚、昭和26年繊細で焼け野原となった八王子に小屋を建てた。父には技術があったので、そこで飴をつくりはじめ、露天の闇市で売った。父は「たんきり」という野草エキスが入った飴を開発し、健康食品発祥の店となった。昭和40年頃には健康食品の方向に持って行った。
そして3代目として基義が後を継いでから、ここまで来るには人には言えないような色々な苦労があった。父が亡くなる1年前に土地を買い足して多額の借金をした。当時は景気がよかったので切り抜けたが、父が亡くなってからバブルが崩壊、資金繰りや銀行の貸し渋りなどで痛手を被った。
挙句の果てにストレスで呼吸が止まった。子供は入試直前、願書を出しに行く朝だった。朝食を食べていて突然呼吸が止まった。そして目が覚めると、一面に黄色い花の咲いた畑の中にいた。自分は死の世界に一時行ってしまった。その時は色々の苦労を抱えており、会社も死ぬ気になれば何とかなるかと全部洗い直した。自分は死の淵まで行って来て、なるようになれという感じだった。
父がなくなってから3年目に薬局の人と縁故があって薬関係の飴を開発した。父の作っていた昔の飴をベースにした商品で、それがヒットした。苦労が実って幾つかの新商品も開発、転職することもなく立ち直り、ひたすら飴をつくることになった。
前向きの姿勢で見ても、今は戦国時代。食うか食われるかの戦い。何万という飴やがあり、その中で勝ち抜くのは大変。昔は八王子にも20軒の飴やがあったのが、今は少なくなり残念だ。
飴づくりでは、常に本物を追求する。自分の哲学「ゼロに始まり、ゼロに終わる』。本物志向でいかないとゼロにならず何かが残る。それが混ざりものである。全く混ざりもののない原液が九州にある。日本ではそこでしか作れない、亀蜜原液である。それは国産の良質スッポンを、生きたまま頭を落とし生血をとり、本体は洗って生血と共に100パーセント天然ハチミツに辛抱強く長期間つけこむ。この間の秘法は全てその会社の特許になっている。その会社と当社は兄弟会社で、この本物の原液を使って飴を作る。
本物ということでは、飴を濃縮するため火をいれて水分を極端に少なくする。そして蒸留水で洗うと、夏放置しておいてもべたつかない、サラサラした飴が出来る」
現在の主力商品は「ビタCのど飴」、「ロイヤルゼリー入り飴」、「たんきり黒飴」、「亀蜜飴」、「大根のど飴」、りんご酢飴」など。
3代目夫人は言う。「結婚前、飴問屋で働いていたことがある。今の事務と全く逆の事務を担当していた。田中家に入ってからは、先代から学ぶことも多く、大変なことも多かったが、2人はパートナーとして協力し合って来た。着実にこつこつとやって来た。家族の大切さをつくづく思う。今、この不況の時代に、学業を終えた2人の息子たちが、父の会社で働きたいと言ってきた時はやはり嬉しかった。事業をしていると山あり谷ありでどん底も経験する。それに経営者の孤独もある。そんな中で、このまま家族合わせて、のびのびと暮らしていけたらと思う」と。
(文責・清水英雄)

 

One Two えいと 「の」の号

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八王子の農業

 

野宿生活者炊き出し支援 増えつづけるホームレス

平成不況のなか、職を失い、働く意志を持ちながら社会参画できないで、野宿生活に追い込まれている人が増え続けている。小泉首相の聖域なき構造改革に伴う「いたみ」が、まずこうした人たちの創出にもなりかねない現状でもある。前号の取材でも、八王子にホームレスが急増しているという話を聞いていた。その人は「明日は我が身かと思いながらも何もできない」と世の冷たさをしみじみ語っていた。

「野宿生活者炊き出し会」
そうしたなか、10月21日大和田市民センターで「野宿生活者の炊き出し会」が行われた。
会場の調理室には、この会の主催者である「三多摩野宿生活者人権ネットワーク」の松山禎之さんはじめ数人のスタッフが豚汁などを作っていた。その中に、まだ二、三十代と見られる当事者が手伝いをしていた。すでに何人か集まって、準備待ちしている人の中には、哀調をおびた軍歌や童謡を歌っている人もいる。料理を手伝っていた若者の一人が突然私のところへやってきて、「ごくろうさん」と言いながら、取材用のノートに自分の氏名と13年10月21日と書き込んだ。一瞬スタッフなのかホームレスの人なのか、判断に迷ってしまった。

後で理解できたことだが、野宿生活から抜け出せないでいると、精神的に追いつめられて、極端に無気力になったり食欲不振に陥ったりする人が出てくるとのこと。そういえば昼食会に集まった十数人の人たちも「みんなで食べるとおいしいなぁ」などと喜んで食べていた割には食が細かったように思えた。
午後からは、この会場へこられなかった人たちへ、残った豚汁やおにぎりを配って歩いた。まず横川公園、ここには3人が定宿しているらしい。公園の一角にある東小屋は3人の荷物で占拠されていた。市民はもちろん当事者の姿もない。「今日は日曜だから、仕事探しでもないし、図書館へでも行っているんだろうか」と松山さんは言う。浅川添いのいくつかの橋の下にも何人かずつの塒があったが、どこも留守だった。
八王子にも今は50人から100人ほどのホームレスがいると言われているが、いつも同じとこで寝起きしているわけではないし、連絡の取れる人はほんの一部で実体はわからないとのこと。

 

野宿生活者炊き出し支援 増えつづけるホームレス

当日、取材に応じてくれた人は43歳の大工さんだった。沖縄出身で十年ほど前から八王子で仕事をしていた。2年前に建築不況のあおりで、いわゆるリストラにあってしまった。以来、人材派遣会社に登録して日払いの仕事をしていたが、次第に仕事に出られる日が減って、ついに家賃不払いで住居を失ってしまった。日本の今の制度では、一度住所不定の烙印を押されてしまうと、生活保護を受けることも出来ないし、何より職探しに最大のネックになってしまう。まして賃貸の住居の契約などよほどの身元引受人がない限り無理な相談で、出口の見えない悪循環の世界へ落ち込んでしまう。あまり詳しい質問も出来なかったが、「まだ、そう深刻になってはいないから」と言う彼の言葉と、輝きを失っていないその目に救われた思いでもあった。彼の着ているものもこざっぱりしていたし、近くで取材していても体臭なども感じられなかった。

「屋根と仕事を」
「三多摩野宿者人権ネットワークでは」当日のような炊き出しの他に、「風呂代1口400円の支援」などの直接支援を呼びかけている(郵便振替「三多摩野宿者人権ネットワーク」00160-5-63228)。また、東京都市長会へは、①自立支援の協議会の設置 ②実態調査 ③短期入所施設の設置、の3項目の要望書を出している。国には「ホームレス自立の支援等に関する臨時措置法案」の早期成立を国会に提出する実行委員会にも参加している。これまでに、国会請願デモ、中央省庁交渉、国会議員への意見表明などを行ってきた。

ホームレス自立支援立法
7月には、各政党にたいして「ホームレス問題をどう考えるか」と特別立法の必要性の有無について公開質問状を出して、主要各政党からの回答を得ている。この時点では5月に法案をまとめている民主党など3党が早期成立を目指すと答えていた。これに対し、自由民主党は「企業倒産・リストラ解雇等により離職された方々は、精勤されている際に、雇用保険料を納めており、当然手厚い給付日数を確保した改正雇用保険法の適用により、再就職までの一定期間、生活費を支給される権利を有しています」「社会的束縛を嫌うなど、社会生活を拒否することから自らの意志で結果的にホームレスとなった人々には国の援助の手は干渉の手と映るはず」と、立法以前の問題で事案ごとに対処すると答えていた。
ところが11月5日に、「ホームレス対策は国や地方自治体の責務」として自民・民主の与野党で法案を共同提案し、今国会での成立をはかるという。松山さんらの願いと行動による一歩前進であろう。だが自民党のこの変わり身の早さ、「国や地方自治体の責務」とは何を意味しているのか、不気味でもある。

誰でも簡単にホームレスに
たぶん多くの人たちが考えているであろうと同じように、私の心のどこかにもホームレスの人たちに対して「怠け者」「不法占拠者」と言う偏見があった。あるいは彼らのように、見栄も外聞もなくすべての社会的束縛から離れて生活できる心境を羨ましいとも思ったこともある。つまりホームレスになるのは自分の意志、あるいはやる気のなさがそうさせているのであって、個人の責任の問題と考えたいた時期があった。「乞食は三日やったらやめられない」とか「あの人たちは立派な帰る家があるんだよ」などと言うことを聞いたこともある。が、今や全く違った事情のもとで、野宿生活を送らなければならない人たちが増え続けている。厚生労働省の99年の調査でさえ、全国では2万人以上のホームレスがいるという。そのうち東京と大阪で7割を占めているともいう。

野宿生活者炊き出し支援 増えつづけるホームレス

 

同時多発テロ発生後のアメリカで、ある中学教師が、全世界の人工を100人として「もし冷蔵庫に食料があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるなら、あなたは世界の75人の人たちより恵まれています」と言うメールを生徒たちに送ったという記事を読んだことがある。同じ次元の話ではないが、自分の意志とは全く関係なく人々はこうした生活に追い込まれてしまう可能性の中で、今を過ごしていることを強く意識させられた。
当日炊き出しのスタッフから、『ホームレス作家』松井計(幻冬社)なる著作を紹介されて、読みかけのイスラム関係の本をさしおいて一気に読んだ。この本によると今の日本の都市部では、誰でも簡単にホームレスになってしまう状況がよくわかる。家賃生活者がその家賃が払えなくなってしまった時、家を持っていても住宅ローンを払えなくなってしまった時、経営破綻した中小零細企業の経営者等々。

著者はホームレスにはなったが、思案し必死の努力で野宿生活をさけ通した。幸い作家への復帰の兆しがみえ、一時マンスリーマンションに入ることができ た。しかし2ヶ月後にはまたホームレスに舞い戻らされてしまう。再び路上に出た彼が一番先に感じたのは、半年前と比べて路上生活者が目に見えて増えている ことであった。まだ衣服のよごれていない人、中には若い女性の姿まで認められるようになっていたと書いている。
木枯らし一番も吹き、寒い冬がまたやってくる。三多摩地域には短期の宿泊施設さえ一つもない。同ネットワークでは、できれば現金で、または米や缶詰などの食料品の支援を訴えている。
(文責・清水英雄)

 

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NHK「首都圏いきいきワイド」で放映 水無瀬橋 なんで水無橋

八王子出身、将来の大物お笑いタレント《アンジャッシュ》の児島一哉君と渡部健君が、ボランティア取材!

まず前口上から
はじめまして、児嶋一哉です。
好きな食べ物はハンバーグです。
好きな女性のタイプは何事にも動じない水無瀬橋みたいな娘です。
あっそう言えばこの間、水無瀬橋に行って来ました。
訪ねたのは、水無瀬橋の近くではんこ屋さんを営む小松きみ子さん。86歳とはとても思えない美貌の持ち主でした。
小松さんの趣味はお散歩。
水無瀬橋から近くの多摩御陵までの道は、小松さんのお気に入りの散歩コース。その中でも特にお気に入りなのが、水無瀬橋から見る夕日だそうです。
ちなみに私児嶋一哉の実家もこの近所で、小学生のころはよくこの辺りで友だちと、鬼ごっこや、かくれんぼ、缶蹴りなどをして遊びました。今思えばその友だちの中に小松さんもいたかもしれません。(いるわけないだろ)
陸上部だった中学時代はよくマラソンコースとして使っていました。もし水無瀬橋がなかったら、僕はランナーとして成功して無かったでしょう。(誰が成功しているんだよ)
高校時代には、水無瀬橋の下で不良にからまれ、かつあげされたという武勇伝(?)もあります。
そんな、僕にとっても、小松さんにとっても大事な水無瀬橋ですが、もし水無瀬橋がなかったら大変です、とんでもないことです。めちゃめちゃ駅までの道のりが遠くなります。水無瀬橋、無しの生活は考えられません。
ありがとう水無瀬橋。
がんばれ水無瀬橋。
水無瀬橋、という字を3文字変えて「いなせだね」、水無瀬橋とは、そんな、いなせな橋です。(児島一哉 記)
( )内は渡部君のつっこみ

水無瀬橋の名前の由来
水が無い瀬なのに「水無瀬橋」はなぜ架かったのか? 今回、ぼくが個人的に気になったポイントである。
名前に由来には様々な説があるらしいが、ここではこの水無瀬橋の近くに55年住んでいる小松きみ子さんからお話しをおうかがいした。大変興味深い話をしてくれた。
その昔、弘法大師がこの地を行脚した折に、この辺りに住む老婆に「水をくれ」とお願いした。ところがこの老婆は身なりのみすぼらしい坊主にくれてやる水が惜しくて「ここの水は旅の人が飲むと毒だから、あげられない」といじわるで断わった。坊主さまはそのまま去ったが、この老婆にばちがあたり、たちまち水が枯れてしまい、この川べりを水無川原、水無瀬と呼ばれるようになったという説である。真相は、おそらくこの川は水の増減が激しく、たまたまこの時に水が枯れたものと思われるらしい。
このあたりは宿場町だったこともあり、旅人には親切にしてあげなさいという意味がこめられている語り伝えの一種だと思う。ぼくも八王子に住む友人、家族にさっそく自慢気にこの説を語り伝えた。

水無瀬橋の変遷
南浅川を挟んで横川町と日吉町をつなぐ水無瀬橋。明治39年に架橋したこの橋の設立の経緯には様々な紆余曲折があったようだ。橋が出来る以前は元八王子、恩方、川口の人々は八王子に出るのに川の水が少ない時を選び徒歩で横断するしかなく、随分と不自由をしていた。そこで元八王子に住む横川浅右衛門という人が単独で架橋運動に乗り出した。実際に橋がかかる17年前、明治22年のことである。財源に乏しい浅右衛の元八王子側は資金面での協力を八王子側にも求めたが、それが流水の邪魔になり久島(現在の日吉町)が洪水の危機にさらされる可能性があるので、これを却下した。浅右衛門は諦めず陳情を続けたらしいが、結局彼の運動は途中で頓挫し、架橋には20年近くの歳月を費やしてしまう。 水無瀬橋は昭和7年に現在のようなコンクリートの橋になり、さらに昭和59年に架け替えられて現在にいたるが、架橋以来、周辺住民の生活は飛躍的に便利になったはずである。後世、橋の恩恵をあずかる我々は一見、何の見栄えもしないコンクリートの橋に、その橋をかけるため寝食を忘れて奔走した先駆者の思いがあったことを覚えておきたいと思う。
(渡部 健 記)

 

NHK 首都圏いきいきワイド「突撃ボランティア」で放映される
「One Two えいと」の編集部が、NHKの取材を受け、3月6日午後5時から6時までの「首都圏いきいきワイド」の中の「突撃ボランティア体験」で約15分間放映されました。
この番組は、お笑いタレント〈アンジャッシュ〉が、先輩ボランティアの指導を受けながら、突撃ボランティアとして取材・編集を行うものでした。
アンジャッシュのお2人が八王子出身で、このコーナーが最終回と言うことで、出身地の八王子を選び、わが「えいと」の取材班に白羽の矢が当たったようです。
アンジャッシュのこれからの活躍に期待します。

 

One Two えいと 「ひ」の号

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ひよどり山

 

平岡町の歴史

平岡町の誕生
八王子の人口が3万人を越えたのは明治42年(1909)のことである。その年の戸数は5756戸であった。時の町長、平林定兵衛は、このような町の発展を背景にして、混乱していた大字区域の整理と字名・番地の改称・整備に着手、45年2月、町議会の議決を経て6月に東京府に申請した。
この申請は同年(大正元年)8月16日に認可され、10月1日に施行と決定した。これにより字名(町名)は19から整理のうえ29に増加して新しく生まれ変わった。
改正により久島・馬乗・元子安・新横山の字名がなくなり、平岡をはじめ16の町名が新しく誕生した。それまでの平岡町の地域をみると、八幡町の町域になっていたものの、馬乗町の飛地がはいり錯雑としていたが、改正によって平岡町としてひとつに整理されていった。八王子町長平林定兵衛が、このような町の整備を実施したのも、市政施行を目指しての一石であったことにちがいない。

関東十八代官
ところで、平岡という町名はどのような経緯から生まれたのであろうか。それを知るには、今から410年ほど前の徳川家康の関東入国にさかのぼらなければならない。
天正18年(1690)6月23日に八王子城は落城、7月5日に本拠小田原の北条氏は降伏した。同月13日に秀吉は小田原に入城し、家康の関八州移封をきめた。家康は同年8月1日(八朔)に江戸城にはいった。
八王子には代官頭大久保長安が小門に新しく陣屋を構え、治安と行政の任にあたった。八王子の町割(町造り)が開始されたばかりのころである。治安は乱れていた。当時の状況について『新編武蔵風土記』は次のように記している。

町人等もわずかに居をなしし始なれば、近郷の落武者或野武士の類多くあつまり住けるにぞ、やゝもすれば騒乱に及しゆへ、命ありて関東の御代官を多く此辺に居住せしめられ、長安是を指揮せり
文中の代官を八王子代官または一般的に関東十八代官とよんでいる。十八代官は八王子を中心にして一部周辺村落に屋敷を構えた。その地図によると、現在の平岡の地域に3人の代官が屋敷を構えていたことがわかる。上から今井九右エ門、中川八郎左エ門、平岡次郎右衛門とならんでいる。
これらの八王子代官は、18人が一時期に同時に居住したわけではないという。実際は家康の関東入国以来、天正、文禄、慶長、元和を経て代わる代わる在住したものである、という(『わが町の歴史八王子』)。ともあれ関東十八代官のうち3人が平岡地域に屋敷を構えたことが明確となった。

三代官の記録
平岡に屋敷を構えた3人の代官について、『新編武蔵風土記稿』や植田孟縉の『武蔵名勝図会』、それと同時期に書かれたとされている『八王子郷風土記』等が3人の代官に触れているので、紹介しつつ平岡との関連を考察してみよう。
まず『新編武蔵風土記稿』では、「八幡宿」の「旧跡」として「御代官屋敷蹟」を扱って説明している。代官今井・中川・平岡の3人をあげて屋敷跡を述べ、その位置として善龍寺の北側から東へ横丁(大横町)までの間にありとし、その並びに鎮守とした稲荷社の跡があり、土地の人はその跡を稲荷塚と呼んでいるという。
『八王子郷風土記』は代官屋敷跡についてより具体的に次のように書いている。
一御代官屋鋪跡
十八代官内今井九右ヱ門・中川八郎左ヱ門・平岡次郎右ヱ門等カ邸跡ナリ 本郷村興栄山善龍寺ノ角ヨリ東ノ方ヘ横町迄ノアイタ中道ヨリ北ノ方ニアリ 今井カ鎮守ノ稲荷トテ塚上ニ黐(もち)樹一株アリ 其下ニ小祠在 此辺皆畑ナリ 土人呼ンテ平岡ト字ス
『新編武蔵風土記稿』で鎮守の稲荷が登場し、この『八王子郷風土記』では「中道ヨリ北ノ方」に代官今井氏が鎮守とした稲荷をあげている。この稲荷こそ現在の現宝(げんぼう)稲荷であることに間違いない。この現宝稲荷は代官今井氏の鎮守だというのである。さらに注目すべきことは土地の人が地名を平岡と呼んでいることである。字名としてすでに平岡が使われていたのである。
『新編武蔵風土記稿』の編纂に参加した植田孟縉は、風土記稿が編纂されていた文政3年(1820)に『武蔵名勝図会』を脱稿したが、「小門宿」の項目で「屋敷跡」を書いている。八幡宿の北裏に本郷宿(現本郷町)があってそこに代官屋敷跡があり、この辺を平岡の地名で呼んでいるという。そのわけは「平岡氏の屋敷ありしゆえなり」としている。平岡三郎右ヱ衛門、今井九右ヱ衛門、中川八郎右ヱ衛門の3人が善能寺前から大横町の裏までに居住しており、代官屋敷が並んでいたこの通りは「八王子城下街道」と呼ばれていたという。この「小門宿」の項目の最後に「平岡塚」を設けて次のように説明している。
平岡塚 同所北側の平岡氏が屋敷跡なる畑中にある塚なり、上に黐の樹一本あり。その下に稲荷の小祠あり。屋敷の鎮守なるべし。
『武蔵名勝図会』では、現在の現宝稲荷と判断されるところを「平岡塚」と書き、この屋敷跡にある稲荷は平岡氏の鎮守だというのである。この記述は『八王子郷風土記』や元禄時代と思われる八王子地図が記す代官今井九右衛門屋敷跡とは異なっている。
ともあれ、江戸時代初期の寛文・延宝期から元禄年間前後に陣屋が廃止され、八王子代官たちは江戸に住むようになったので陣屋はお払いになり土地も払い下げられた。平岡の地域に展開していた代官屋敷はいつしか取り壊されて畑にかわり、屋敷の鎮守であった稲荷の塚だけがそのまま残った。そのような風景が「五街道其外分間見取延絵図」の「横山十五宿」に見られる。

現宝稲荷
近世初期から平岡町に伝わる稲荷は、現在現宝稲荷の名称で平岡町の鎮守として町会持ちとなり、初午など町民の生活のなかに溶け込んでいる。だがこの稲荷の役割は、いままでに述べてきたように、近世初期に八王子に設置された八王子代官(関東十八代官)の存在を確認する1つの指標になっていることから、八王子の近世史を知る上に貴重な資料であることを忘れるべきでなかろう。
(沼 謙吉 記)

 

One Two えいと 「ふ」の号

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富士森

 

昭和20~30年代の富士森公園

昭和20~30年代の富士森公園

〔八王子名所〕 藤森公園
(大正10年頃―八王子市郷土資料館提供)

八王子の中心部より南方を見渡すと、東西に広がる小高い丘一帯に富士森の森が見える。私が小学生だったころの富士森の森の形は現在とは異なり、青々と繁る森の丘の中央部に、周囲より一段と高くそびえる一本の大木がちょうど鬼の角のように突き出ていた。その杉の大木は落雷によって枯れたと聞く。
遠き思い出は懐かしい、幼い自分の姿なき像を中心に、自分が見た幻のような光景を、薄れた記憶でたどる作業は心もとないが、楽しいもの

象が来た
あれはいつごろのことだったのだろうか。陸上競技場のグランドを一頭の象が乗り手の人に操られながら、早や足で右に左に旋回するように走り回ったことがあった。少しでも近くで見たいたくさんの人たちがその象を追いかけるように走り、近づきそして離れ、今思うと、まるでマスゲームのような光景であった。

富士森高校
昭和30年代前半まで、今は長房町にある都立富士森高校は、この富士森公園内にあった。前身は八王子市立高等女学校であるが、八王子空襲によって焼失した校舎を、ちょうど今のプールのある場所に建築したのであった。戦後の新教育制度により、この地名をとり校名を八王子市立富士森高校と改めた。その後、都立高になり、現在に至っている。富士森に建てられた当時の木造平屋建ての校舎は外から見ても古くさく、確か二十年代後半だったと思うが、文化祭の日に中に入ったら教室や廊下などが暗く、狭いが明るく輝くような校庭とは対象的であった。今から思うとはるか遠く、夢の一コマのような記憶である。

市立台町病院
古くさい建物と言えば、もう一つ覚えている。今、体育館のある所に、台町病院という比較的大きな病院があった。やはり木造平屋建てであり、伝染病を取り扱う専門病院であったが、私の小学校時、猩紅熱(しょうこうねつ)の大流行があり、知っている何人かが入院したことがあった。考えてみれば、市民公園の一画に伝染病病院が存在していたことは不思議なことである。

催し物会場として
富士森公園は四季にわたっていろいろな行事に使われてきた。市内中学校陸上競技会、都立二商や富士森高など運動会をはじめ、映画のロケーション、牛の市や馬術競技大会、シバタや甲子のサーカス会場、そしてメーデーなど、多種多様な催し物として利用された。ヘリコプターが降りると言っては、授業を中断してわざわざ見物に訪れたり、アメリカ進駐軍のジープがたくさんグランドに並んだこともあった。

桜通り
何よりたくさんの市民が集まったのはお花見であった。中央線の踏切から富士森のある上野町を通るいわゆる桜通りには、長く夜店が並び、店の中を覗きながら、その桜並木を上り、下ったのである。桜木には、提灯がともり、その灯火に照らされた桜花が黒い夜空を背に明るく光っていた。あの当時はまだ、戦争の傷あとが多く残っていた時代であった。かけがえのない肉親を失った人、戦災で家を焼失してしまった人、定まった職がなかなか決まらない人など、様々な人々が各々の思いでこのお花見に集まったに相違ない。その桜通りも今は消えてしまった。
(佐藤 栄 記)

 

One Two えいと 「へ」の号

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ペット

 

ペットショップペットは愛をもって育てよう。それで自分も心が癒される。

京王相模原線橋本駅から新宿方面に2つ目の駅が南大沢だ。そこは八王子のなかのニュータウンの1つである。2年前にアウトレット「ラ・フェット多摩 南大沢」がオープンした。広い敷地内に南欧風一色で立てられたこの地は、今や若者たちのスポットとして注目を浴びている。八王子の中心街から少し遠いので、まだ話の種だけで実際に行ったことのない人には1度このような新しい町も見てもらいたいと思う。
南大沢駅の改札口を出ると、すぐ前にアーケードがあり石畳の歩道の所々には季節の花が植えられて快い季節感が味わえる。1~2分ほど行くと正面に都立大学が見えた。その手前を右に曲れば、今回「へ」号の取材場所であるペットショップがある。
そこは「ラ・フェット多摩 南大沢」の一角であるが、ガーデニングとペットコーナーが一体となった2階建ての大型の売り場だった。

多種類のペットとペット用品がそろっている「ペットエコ横浜 多摩店」
ペットといえば犬、猫を想像するが「ペットエコ横浜 多摩店」では珍しいペットが見られ驚いた。例えばフェレットといって、いたち科の手の平に乗るほどの可愛いものや、うさぎ、猿、マウス、インコからオウムに至るまで多種類のペットと、それらに付属する用品が所狭しと各コーナーを埋めている。
さまざまなペットの鳴き声がする中で、ペット事業部犬猫主任の藤原史弥さんにインタビューした。
「ペットエコ横浜 多摩店」は7店舗を持つチェーン店で本店が横浜にある。「この店に来る年齢層は」と質問すると、客層は幅広く今は国民全体が中流意識のなかで、うるおいや癒しを求めて訪れる人が多くなってきた。年配層は子供が成人して寂しくなったからとか、若い夫婦は子供がわりにペットを可愛がるなど。また子供の情操教育のために生き物を育てる、という家族もある。一般的に人気のある犬は、ミニチュアダックスフンド、トイプードル、チワワなど室内犬が多い。大型犬は力が強く、しつけるのが大変なので初めて飼う人には余り勧めないそうだ。犬を飼おうと思う人は値段で選ぶというよりも、メディアなどによって最初から種類を決めてくる。時期としては春先の出産期に買う客が多い。猫の場合、店で売っているのは全部血統書つきで、飼っている人の多くは知り合いからもらったり、野良猫を捨てられず飼っている人が多いとのことである。

ペットを飼う心構え
「ペットは一見して可愛く思うが、育てなければいけない。食べるし排泄もするので、子供が1人増えたのと同じ考えで飼って欲しい」と藤原さんは常に指導しているという。客のなかには、最初に買ったときは小さくて可愛いと思っていたのが、大きくなりすぎて手を焼き、最後は保健所に引き取ってもらうというケースもある。年間引き取られる野良犬は日本全国で何十万党もいると言われる。そうしたことから最後まで責任をもって育ててもらいたい、と藤原さんは強調した。
ペットエコでは、初めて犬を飼う人にはいろいろなケアをしている。あmず病気になった時近くの獣医を紹介する。排泄などのしつけは最初サークルの中で行動半径を作り、そのなかに入れて教える。フードの与え方や散歩用などの必需品、リード、首輪などのほかに手入れ用ブラシ、おもちゃの与え方も指導する。
また外出する場合のペットホテルは同じフロアにある「アサヒペット」を紹介することもできる。宿泊料は犬猫の大きさと種類によって料金が異なる。そのほかはアサヒペットではトリミングでペットの手入れもしている。
ケースの中にいる可愛い犬の写真を撮らせてもらおうと頼んだが、犬はフラッシュなどにとても敏感で体調を壊しやすいとのことで撮るのは止めた。その代わりに若い女店員さんが生後1ヶ月のフェレットをだっこして見せてくれた。白くて柔らかな毛並みでねずみぐらいの大きさだが、女店員さんに抱かれると甘えた目付きをして可愛かった。また立派な嘴と青い冠をかぶったオウムも彼女の手に乗ると実に素直でおとなしい。育てると人とペットの心がピタリと通じるような温かさを感じた。

熱帯魚、金魚、爬虫類コーナー
1階に行くと、大きな水槽に色鮮やかな熱帯魚がスイスイと泳ぐ姿を見て、とてもさわやかな気分になった。夏の風物詩である金魚は特に子供のころを思い出させる。カブト虫、クワガタ、ミドリガメ、カメレオンまで子供の好きそうなペットがいっぱいいた。
「今一番人気のあるのはカメレオンですよ」と観賞魚主任の平田広通さんが教えてくれた。15センチメートルぐらいのカメレオンをケースからひょいと出し指のうえに乗せた。尻尾をくるりと巻き、目はショボショボさせて静かにしている。成長すると50センチメートルぐらいになるそうだが、これは体臭もなく面白みがあるので、年齢関係なく人気だという。爬虫類が苦手な私も平田さんの手にのったカメレオンは、やはり可愛く見えたのが不思議である。
(中山正江 記)

 

One Two えいと 「ほ」の号

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ボランティア

 

八王子のホタル事情

日本の夏の風物詩といえば、おそらく誰でも、戸惑うことなく「ホタル」と答えるでしょう。そのくらいホタルは日本人の心の風景の中に、深く刻み込まれてきました。しかし最近はどうでしょうか。「そういえばホタルが飛ぶのを最後にみたのは何年前のことだったか」と、おっしゃる方が多いのではないでしょうか。
八王子のホタル(この場合は、ゲンジボタル・ヘイケボタル)が一級河川や水田から次々に姿を消してから、かれこれ25年近くになります。その原因はいろいろありますが、なんといっても生活排水による河川の水の汚濁と、除草剤を始めとする農薬の大量使用、人口の都市への集中に伴う大規模宅地開発による里山環境の激変です。では、八王子で、かつての河川や水田の棲みかを追われたゲンジボタル・ヘイケボタルは今、どんなところに生き残っているのでしょうか。
まず、ゲンジボタルですが、南浅川・北浅川の各支流の源流部と、開発の手を逃れて僅かに残存する谷戸の源頭部、雑木林の中です。しかし、こうした場所はもともとゲンジボタルが棲息していた場所ではありません。そのために、幼虫の餌も著しく不足し、場所によっては、幼虫が食べ物の種類を変えて辛うじて生き残っているような状態です。また、成虫になって繁殖行動をするときには、雄が雌を探して飛び回れる、川原のような開かれた広い空間が必要ですが、現在棲息しているような場所は、草木に覆われてそのような空間がありません。したがって、ゲンジボタルの棲息環境は、危機的な状況です。
ヘイケボタルはどうかといいますと、ゲンジボタル以上に危機的な状態です。といいますのは、ヘイケボタルは、人間の稲作農業の農作業と共に、湿地から水田へと、主要な棲息場所を変えて繁殖してきました。農薬を使わない昔の水田は、ヘイケボタルにとっては極楽浄土のような棲みよい場所でした。昔の水田のあぜ道には、八王子でも夏の夜に、宝石箱をひっくり返したような状態で、無数のヘイケボタルが発生し発光していました。
戦後大量の農薬が水田に撒かれるようになった時が、ヘイケボタルの1回目の試練でした。しかし、それでもまだ、この時には水田そのものと稲作農業は続けられていました。ところが人口の都市への流入による、大規模宅地開発は、ヘイケボタルの生息地である水田そのものをヘイケボタルと共に埋め立ててしまいました。また、放棄された水田は水草が生い茂り、水田の表面をすっかり覆い尽くしてしまいました。ゲンジボタルほどの飛翔力のないヘイケボタルは、生き残れても、離れた安全な場所に避難することができなかったのです。こんな訳で、残念ながら、八王子のヘイケボタルは、ゲンジボタル以上に絶滅の危機に直面しています。このままの状態が継続すると、あと10年はもたないでしょう。
ところで、皆さんはホタルといえば、ゲンジとヘイケだけだと思われているかもしれませんが、実は、ホタルは、世界にざっと2000種、日本には47種、八王子は、9種類のホタルがいます。ゲンジ・ヘイケ以外には、クロマドボタル・オバボタル・オオオバボタル・ムネクリイロボタル・カタモンミナミボタル・ヒメボタル・スジグロボタルです。これらのホタルは、すべて陸生で、雑木林や山地の林道、林の中などを主な棲みかにしています。八王子では、6月始めから7月の半ば過ぎまで、高尾山などでも成虫をみることができます。
(「one two えいと」本誌には、八王子で見られるいろいろのホタルの資料写真が載せてあります)
(多摩里山動植物研究調査会 小俣 軍平 記)

 

One Two えいと 「ま」の号

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まつり

 

マンション建設にいたるまで 八日町第2地区の再開発事業

甲州街道沿いにある八日町は江戸時代には宿場町として、近年は織物の町八王子の中心街として、歴史を育んできた。この中心街の活性化が提起されて久しい。賑わいのある新しい街をつくるために、地元に再開発組合がつくられ、長年検討を重ねてきたが、間もなく「ビュータワー八王子」の完成、オープンとなる。
ここに至るまでの経過を「八日町第2地区市街地再開発組合」の理事長中野和夫さん他、各関係者に伺ってみた。

駅ビル進出
昭和31年ころ、市議会に鉄道対策委員会が設置され、「八王子民衆駅」が話題となった。
この計画が具体化されつつあった昭和52年ころ、やがては駅ビルが造られるであろうと、4地区に分かれている八日町商店街(甲州街道沿いの約400メートル)の役員が集まり、今後のあり方を協議をした。このとき実施されたアンケートの結果では、駅ビルが進出してくると商店街は立ち行かなくなると、98%が反対であったという。
昭和53年、市に再開発対策本部ができて、駅ビルを誘致することが決定された。八日町の商店街は駅ビルの内容及び対応をどのようにするかで、昭和57年3月着工(昭和58年11月完成)までの約3年間、さまざまな意見が噴出し、紛糾したという。

 

マンション建設にいたるまで 八日町第2地区の再開発事業

八日町の再開発
駅ビル問題の進展とともに、商店街は再開発に向けて取り組むようになった。はじめは駅ビルに対抗できるようなデパートの誘致を考えた。しかし、デパートに頼るのではなく、街自体の活性化を図らなければならないと反対する意見がでた。
やがてバブル到来となり、地価は高騰し、八日町でも商売が思わしくない店は売りに出す所がでて来た。勝手に売られてしまうと再開発が出来なくなることを恐れ、何箇所かデベロッパーに買ってもらっていたが、坪800万から1000万円にもはね上がり、デベロッパーにも頼めなくなり、途中で断念した。市に陳情に行ったが、反応は思わしくなかったため、再開発を断念した旨を市に伝えた。しかし、市から引き続き、推進するようにと説得された。そして昭和61年3月、八日町の町会長、商店会長らによる「八日町街づくり委員会」が発足した。
市は八日町の位置づけとして、昭和63年3月に「八日町周辺地区再開発基本計画」を策定した。第2地区の中は「東京電力」がかなりの部分を占め、軒数が少ないので取り組み易いであろうとの「街づくり委員会」からの要請で、63年4月に「八日町第2地区市街地再開発準備組合」設立となった。
ここに至るまでに長い時間を要したので、住民は再開発についてはすでに承知していた。その家の事情により、準備組合ができる前に移転した人もあり、準備組合ができたときの利権者は東京電力を含め、20人(社)ほどだったという。中にはバブルにより、転売されている土地もあり、そこは市が買収し、市も地権者となった。
「八王子市都市整備部再開発課」の話によれば、国道20号線下に整備する予定の「国土交通省直轄の地下駐車場」で、国道20号線の幅員で出入り口を確保するのが物理的に難しいため、再開発ビルの地下駐車場への車路を共有することになり、市が権利を確保したという。
「東京電力」に関しては54年ころから、歴代の所長に再開発の協力を要請し同意を得た。

なぜ、都市公団なのか
そもそも準備組合が発足した当時は第2地区を生命保険会社が取得して、24階の都市型ホテルをつくる予定だった。図面を3回書き直したが、結局はバブルがはじけて会社が撤退してしまい、1年弱、思案にくれて様子をみていた。経営コンサルタントに相談した結果、地価下落の折でも、マンションなら採算がとれるとのアドバイスを得て、大手の不動産会社6~7社に呼びかけて公聴会を開いた。ほぼ同時期に都市公団と東京都住宅供給公社からも協力できるとの回答があった。民間がよいか、公がよいかを考えたとき、バブルを経験した後であり、国の特殊法人である公団の方が安全性があるとの判断から公団による住宅建設が決定した。
「都市基盤整備公団」によれば、公団の主たる目的は再開発にあり、公的側面を重視している。当初は分譲住宅であったが、現在の経済状況を考えると、分譲の需要が少ないと思われ、賃貸住宅になったという。
平成12年、契約が成立し、平成15年6月に完成予定で、現在仕上げの工事中である。

「ビュータワー八王子」の誕生
再開発の目的は高いビルをつくることではなかったが、採算を考え、結果として八王子のランドマークになるような地上28建ての超高層タワー「ビュータワー八王子」となった。
内部は1LDKから3LDKまでの16タイプで313戸。時勢にあわせてオール電化住宅。バリアフリーで年配者も安心して住めるよう配慮がなされている。ブロードバンド時代に対応したインターネット設備ももつ。先日行われた奇数階の申し込みは最高5.3倍の人気となった。6月14日には偶数階の第2次募集が行われる。
3階は医療クリニックモール、2階は八王子市の美術館、1階はスーパーマーケットや、ショッピングが楽しめる店が入る予定である。

「八王子市夢美術館」
市の再開発課の話では、当初、このビルに発生する市の権利床をどのように使用するかは未定で、工事着工時には子供から高齢者まで利用できるもので、中心市街地の活性化に役立つものは何かと検討中であったという。平成14年5月に美術館にすることが正式決定され、平成15年10月18日に一般公開される。
「生涯学習部推進課」によれば、美術館のスペースは3つに分けられる。一部は市が保有する八王子ゆかりの画家である小島善太郎画伯(1892~1984)の作品51点、鈴木信太郎画伯(1895~1989)の作品12点、その他を併せて144点、及び市民の寄贈による作品が順次、展示される。他の部分は「八王子市学園都市文化ふれあい財団」の学芸員により、企画展、特別展が開催される。街中のオアシス、心が豊かになれる場所にしたいとのことだ。

都市景観には緑が必要で、マンションのまわりは木々で緑化。花の咲く木も植える予定。甲州街道のアーケードは撤去の方向で、代わりに街を緑で一杯にして行きたい。甲州街道は古い先達が営々として築きあげてきた商店街であり、このビルを核として活気ある街づくりを広げていきたいと中野さんは抱負を語られた。
(西川圭子 記)

 

One Two えいと 「み」の号

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ミス八王子コンテスト

 

手作り味噌講習会の店 埼玉屋本店

奥さんのアイディアで
市内中央部を東西に貫く甲州街道。この街道沿いに並ぶ商店街の一角に埼玉屋がある。
埼玉屋の創業は江戸時代文久年間、今から140年前。乾物を商う市内屈指の老舗である。
味噌づくり講習会を始めたのは20年前。店の奥さん、長谷部美野子さんのアイディアであった。当時の店はまだ木造であったが、その店の奥座敷を使って講習会の準備をし、募集をかけた。20名の定員を超える応募があり、当日は欠席があるだろうと見込み、定員以上に返事を出してみたら、なんと全員が出席してきた。スタートしたころは、講師の先生を専門の方にお願いしていたが、まもなく奥さん自身が先生となって、この講習会全体を取り仕切るようになった。
「私も自分で味噌をつくってみたいと前々から思っていたし、店のお客さんからも味噌のつくり方を誰か教えてくれないかと言われていたことが、これを始めるきっかけでした」と、20年前を思い出して話された。よく20年も続きましたねと声をかけると、「とにかく楽しいんです。皆でおしゃべりしながらやると」「講習会に来られる方も教わりに来るというより、楽しみに来るという感じなんです」、張りのある元気な声で話してくれた。

二時間で味噌作りが
講習会に参加してくる〝生徒〟たちのほとんどはやはり女性だが、時にはご夫婦で来られる方もいるし、若い20代から70代までと年齢層も幅広い。講習会は当初約20人であったが、今は回数を大幅に増やして定員を6人におさえ、会場も店の2階の専用台所で開いている。ほとんどいつも満員となる盛況ぶりだそうである。
講習会は1回2時間ほどで終わる。一人当たり1キログラムの大豆をこうじと塩などと混ぜながらつくる。添加物はいっさい使用せず、大豆も北海道産の「鶴の子大豆」や新潟県産、埼玉県産の無農薬大豆を直接仕入れて使う。
「この豆はおいしいんです。味が違うんです」と、ご主人の長谷部良幸さんは話す。商売上たくさんの豆類を扱って来た人の話だから確かなのだろう。「味噌にする前の豆を口に含んで噛んでみるとうまいんです」。いつもは冷静に話す良幸さん、この時ばかりは言葉に力がこもり、目が光っていた。大豆1キログラムは味噌になると3・5キログラムにもなる。十分にやわらかく煮た大豆を手でつぶす作業は見ていても大変そうだが、楽しそうでもある。和気あいあいと皆が同じ作業をくりかえし、2時間はあっと言う間に過ぎてしまうそうである。

ふるさとの味
考えてみれば、味噌は私たち日本人にとって、欠かせない食品である。古来、奈良、平安の時代から食卓に上り、食の中心となってきたものである。長く外国生活をして帰国した人の、最初の一声が「うまい味噌汁が食べたい」である。味噌はおふくろの味、ふるさとの味なのである。かつては、味噌はそれぞれの家庭でつくり、それぞれの独特の味を醸し出していたのであった。味噌だけではないが、自分の家族で食べるものは自分の手でつくり上げてきたのである。この手づくり味噌講習会はその意味で食の原点にもどった営みとも言える。

目玉はやはり豆類
埼玉屋で現在扱っている商品はもちろん味噌だけではない。本来、乾物屋なので、干ししいたけ、のりやこんぶなどの海産物、他に調味料など全部あわせると、その数は今や1000~1300品目にもなるが、中心となるものは、やはり豆類である。4年前に新装した店内には、きれいに並べられた品々が洒落た照明の下で輝いている。

金時豆、大豆、小豆、黒豆、緑豆、ひよこ豆……など、季節によって違うがおよそ20~30種類あるそうである。言わば、豆の専門店でもある。埼玉屋のある八幡町商店街は、数年前からまちづくりの一環として、「一店逸品」に取り組んでいる。埼玉屋はその逸品を豆にしているのか、味噌にしているのかは聞きそびれてしまったが、確実に逸品を持っているように思えた。
帰り際に奥さんに聞いてみた。
「味噌の手づくり講習会はこれからも続けるんですか」
「やりますよ。皆さんから、味噌が上手にできたわよ、と言われる度に、あっ、うれしいと思うの。友だちもたくさんできるし、続けます」と、笑顔で答えた。
講習会に参加した人には会えなかったが、声が聞こえそうであった。
「自分でつくった味噌は一味もふた味も違うわ」(手前味噌!)。

 

One Two えいと 「み」の号

(佐藤 栄 記)

 

One Two えいと 「む」の号

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武蔵陵墓地

 

無形文化財 四谷龍頭の舞 獅子舞にかけた熱い夏

8月、八王子市内では獅子舞の奉納が最盛期を迎える。諏訪神社をはじめ氷川、田上、今熊など市内には9つの獅子舞が代々継承されている。その中でも非常に古い由緒をもつとされるのが、四谷町に伝わる「四谷龍頭の舞」だ。現在、祭りで使用されている龍頭には正徳2年(1712年)の墨書きがあり、今も祭りに使われている頭としては都内最古の認定を受けている。

「四谷龍頭の舞」とは
「四谷龍頭の舞」の起こりは明らかではないものの、一説によると約400年前、今は廃寺となっている北原宝積院を訪れた旅の六部(巡礼)が村の青年に伝えたのが始まりとされている。舞の構成は獅子(3頭)、唄方、笛(5名)、花笠(少女6名)、木太刀(16名)、真刀、棒(8名)。獅子はひとり立ち形式で、3頭の獅子頭は雄獅子である大獅子と中獅子、雌獅子が各1頭となっている。私にはこのひとり立ち形式というのがとりわけ新鮮に感じられた。何しろ獅子舞といえば、唐草模様の布の中で、頭とお尻にひとりずつ入って子供の頭をパクパクやるパフォーマンスを見せるものだという認識しかなかったので、「四谷龍頭の舞」の迫力、勇壮さには感心することしきりだった。
例大祭中は、25日には四谷町会館で披露され、26日には諏訪神社境内において奉納舞が行われる。時期としてはまだまだ残暑も厳しく、じっとしているだけでも汗がにじんでくる季節に獅子役たちの出立ちときたら……。頭にはあのいかめしい龍頭をかぶり、体の前には太鼓を下げ、足袋に手甲に袴。おまけに上半身を覆う本ちりめんのすだれで視界はほとんど奪われている。全身フル装備のサウナに入ったような状態に耐えての力強い舞は、だからこそ目をそらすのを許さない切迫感すらたたえつつ見る者の心に入りこんでくる。
演目は、庭入りに始まり、幣がかり、一つ返り、太刀掛り、二つ返り、弓掛り、まり掛り、岡崎、歌舞、花笠廻り、かっこ、とられたの12節。龍頭の舞というだけに龍神(=水神)にまつわることから五穀豊禳、雨乞いを祈願するものとされる。舞の唄の中にも龍神の存在をうかがわせる箇所があり興味深い。例をあげるなら「天にのぼりて 黒雲となる」、「大山見れば雲があるやら 雨が降るやら おいとま申していざ帰ろう」といったところだろうか。雨雲を呼び村人の願いが聞き届けられたところで、またどこかへ帰ってゆく龍神の姿が浮かび何とも微笑ましい。

日本の仮面文化
そもそも獅子舞は古代中国の唐から伝わり、舞楽として演奏されていた。それが後に変容して太楽器や各地の祭礼などで、五穀豊禳の祈祷や悪魔払いとして新年の祝いに行われるようになったとされている。この獅子舞を日本の仮面文化という観点から把えることで、歴史的な理解も深まり、固定化したイメージにとらわれないユニークな見方ができるかもしれない。
日本の仮面文化を大別すると次の4つの形態に分けられる。すなわち「土面」、「渡来仮面」、「伝統芸能仮面」、「民俗仮面」である。「土面」は縄文時代の遺跡から発掘されたもの。仏教とともに渡来し、貴族などの上層階級によって保護・伝承された伎楽面・舞楽面などの「渡来仮面」。武士階級によって保護された能面・狂言面などの「伝統芸能仮面」。さまざまな芸能や民間信仰、神話・伝説などと混交しながら伝承される「民俗仮面」。
獅子舞も本来は「渡来仮面」として日本に渡ってきたものの、時の流れとともに形を変え、やがては「民俗仮面」の様相を帯びるようになったのかもしれない。「民俗仮面」は庶民の生活、信仰とともに生まれ、伝えられてきたものである。そしてそれは様式化されることなく、多種多様の相貌をみせる。その多くは、村や神社、家などに神として伝承される例が多いことも古型を保ち続けてきた重要な要素である。
世界の仮面文化を俯瞰すると、仮面には悪霊が宿ると考えられ、祭りや祈祷・呪術などに使用された後は火で浄化(=焼却)されたり、再生儀礼として塗り直されたりするため、残存する例がきわめて少ない。村の神や神楽に登場する神々、家の守り神などとして伝えられてきた日本の「民俗仮面」は、貴重な資料であり文化遺産であるということができる。「四谷龍頭の舞」の獅子頭も由緒正しい来歴を誇る貴重な遺産なのである。

郷土伝統芸能としての誇り
車人形にしろ獅子舞にしろ、郷土伝統芸能と称されるものは新市街に集中している。新市街とは旧市街、つまり中心部を囲むようにして広がる昭和33年の合併以前には村と呼ばれていた地域だ。今の四谷町は元八王子村であり、八王子城が築城された所でもある。こうした背景から生まれる自負やプライドが、「四谷龍頭の舞」を四谷町が誇る郷土伝統芸能として守り抜いていこうという、意気込みの支柱になっているのかもしれない。
「四谷龍頭の舞」はすでに市の無形文化財の指定を受けてはいるが、さらに都の無形文化財の指定を申請中だ。やはり郷土伝統芸能として名高い車人形は、国の無形文化財に指定されている事情から、市が莫大な予算をつけ援助されてきた。車人形が個人による世襲制なのに対し、共同体としての結束を守りながら「四谷龍頭の舞」の普及と保存に努めてきた保存会としては、複雑な思いを抱くのも想像にかたくない。朗報は平成15年から獅子舞にも予算をつけ、車人形と両輪で援助する態勢が整ったことだ。

 

無形文化財 四谷龍頭の舞  獅子舞にかけた熱い夏

これでひとまず長年の憂いも軽減されるだろう。とはいえ「四谷龍頭の舞」にかける意気込みは高まりこそすれ衰えとは無縁のようだ。 (参考文献・高見乾司著『仮面文化の十字路』)
(佐藤江梨子 記)

 

One Two えいと 「め」の号

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メイラン神父 八王子に生きた宣教師


燎原の火
明治11年(1878)10月、下壱分方村福岡(現八王子市泉町)は、時ならぬ歓声と拍手につつまれていた。泉町に今も残るカトリック布教の拠点・聖マリア教会が建立されたからである。「聴衆は雲のごとく集まり、その勢いは燎原の火のごとくであった」と、この運動の中心人物であった山上卓樹は、みずからの回想記『漫草録』に書き記している。
当時、キリスト教は旧幕藩体制の禁止・弾圧から解放されたとはいうものの、おそらくまだ〝異教〟という認識が強かったはずだ。そうした逆風下にあって、思想や教えを広めていく者を先覚者と呼ぶ。山上もその一人だった。
彼は地元の青年で、進取の気概が強く、18歳の時に東京に遊学し『同人社』に学んだ。同校を創設した中村敬宇は、福沢諭吉などと並んで進歩的思想家として知られ、早くからキリスト教の洗礼を受けていた。向学心に燃える山上は、ここで西欧の哲学にも触れ、やがて神の前に人間はすべて平等であると説くキリストの教えに傾倒していく。

 

メイラン神父 八王子に生きた宣教師

日本渡航
この布教のたいまつを受け継いだのが、メイラン神父、その人である。明治25年(1852)、八王子に着任している。この間、八王子でのカトリック布教は、松井玄同という八木町の医師や、横川に生まれ、後に片倉に居を定めた塚本五郎らの入信で、徐々に根を下ろしていた。
メイラン神父は、1866年(慶応2)9月、フランスのクザクという片田舎に生まれた。ちなみに、同じ年に福沢が『西洋事情』を発刊しており、その翌年が明治維新である。パリ外国宣教会の大神学校で司祭になった彼は、日本派遣と決まり、1890年(明治23)に横浜の地に降り立つ。
学歴でもわかるように、若きメイランは宣教師として、異国の民を教化しようという夢を抱いていた。日本に初めてキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルや『日本史』を残したルイス・フロイスにしてもそうだが、彼らは異国の地に果てる覚悟の渡航だったはずだ。だからこそ、その生きざまが時を超えて人の心を打つ。
翌々年、新しく八王子小教区区域が設定され、10月に、そこの担当司祭がメイラン神父に決まったことが、この地との縁だった。ただ、八王子とはいっても、教区は神奈川県下の三多摩から津久井・愛甲郡や埼玉全県が含まれていた。
神父は、活動の拠点を現在の本町の八王子教会に置き、長い髭とスータン(黒衣)を風にそよがせて布教に歩いた。もちろん、聖マリア教会にも足繁く、週に1度は日曜礼拝や子弟の教育のために通い、村内のほとんどがカトリック教徒になったという。

反骨と志
結局、どんな宗教も人を得て広まるものだ。キリストの教えも十字架と聖書だけでは世界宗教とはなりえなかったに違いない。その意味で、多摩へのカトリック伝播が、ひとりの元仙台藩士によってもたらされたことは興味深い。
竹内寿貞という人物だが、その足跡が、自由民権史上に光彩を放つ『五日市憲法』を起草した千葉卓三郎と酷似している。千葉もまた仙台藩の下級藩士の家に生まれた。薩長に対し、賊軍となってしまった東北の出身ゆえに、この両者には〝反骨〟の精神が培われたのではないか……。それは、山上卓樹にもいえる。彼もまた、比較的恵まれていたとはいえ農民の出身だったからである。
実は、彼らのこうした思想形成とキリスト教受容は、決して無関係ではないだろう。どちらも民衆の視点からものを見、あえて権力とは対峙する側に身を置く。イエズス会の系譜に連なるメイラン神父も同じ遺伝子を持つといっていい。そうでなければ、海外布教という志を持つはずはない。
晩年、メイラン神父は清瀬のベトレヘムの園に移る。けれども、八王子が大火に見まわれ、教会が消失した際には、信徒たちの激励に訪れてもいる。亡くなったのは昭和24年(1949)。いくつかの多摩のキリスト教関連年譜には「メイラン帰天」とある。

〈参考文献〉
◇沼謙 吉 著 『明治期 多摩のキリスト教』
◇橋本義夫 編 『近代の先覚者』
◇色川大吉 編 『民衆憲法の創造』
(岡村繁雄 記)

 

One Two えいと 「も」の号

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東京都立八王子盲学校 地域に向き合う

都立八王子盲学校は、視覚障害教育を専門とする総合校である。児童・生徒78名、教員53名、学級数23からなる。視覚障害とは、全盲、弱視及び視野狭窄、色覚や光覚障害を指す。弱視とは普通、両眼視力が0.3未満で、メガネや拡大鏡などの補助具を使えば、墨字(私たちが日常使用している文字のことで、点字に対して墨字と呼ぶ)を読める状態のことである。学区は特に定めがなく、原則、東京都内全域であるが、やはり通学上、可能な地域からの生徒が多い。都立の盲学校は八王子の他に、文京、久我山、葛飾の3校があるが、幼稚部から専攻科までの総合的な視覚障害者教育を行っているのは八王子盲学校だけである。

戦前からの学校
八王子盲学校の沿革は古く、戦前にさかのぼる。創立は1930年(昭5)である。当時の八王子市長、武藤文吾を校長として初等部1学級でスタートした。その後、篤志家や団体からの寄付によって、徐々に整備されていったが、1945年(昭20)8月の八王子空襲によって、校舎は全焼となった。
戦後の1950年(昭25)、財団法人八王子盲学校は東京都に移管となり、東京都立八王子盲学校として、新しく再出発をした。

寄宿舎もある学校
今年度の児童生徒78名の内訳は、就学前の幼稚部9名、小学部16名、中学部6名、高等部13名、高卒後のコースである職業課程・理療科34名となっている。
校舎内はとても清潔できれいであるが、体育館は少々古く建て直しが必要と感じた。また、本校南側にある寄宿舎には通学困難者を中心に30余名の生徒が入居しているが、この寄宿舎は2、3年前に新しく建て替えがなされ、洒落れた明るい建物となっている。

自立活動の勉強も
盲学校の授業では独自の学び方をしなければならない。学ぶ内容は全教科とも、小・中・高校と同じだが、他に自立活動という領域がある。点字学習や、文字を大きくさせて見る拡大読書器、遠くのものをはっきりさせて見る単眼鏡、弱視レンズの使い方も学ぶ。障害からくる見えにくさ、生活の困難さを軽減して、教育条件の向上を図る。また、視覚障害者が必ず修得しなければならない生活の一つに、外出時の歩行練習がある。白杖を使って道を歩くことは、自分の身を守るために欠かすことができない重要な訓練である。取材のため訪問した時も、白い杖を手に持って、学校の塀の横道で先生の指示を受けながら、一歩一歩、慎重に歩いている一人の小学生の姿があった。

「あいサポートセンター」の設立
八王子盲学校はまた、地域との結びつきを深めるために一昨年「あいサポートセンター」を設けた。目のeyeと愛をかけてのネーミングだが、このセンターを窓口として、地域に開かれた学校を目指し始めた。視覚障害教育に関する講演会を開催したり、「体験の会」などを開いたりしている。また、視覚に障害を持つ地域の乳幼児・生徒児童などの育児相談や教育相談を行い、夏休みを利用してのスクーリングも実施している。他にもパソコン教室や公開講座、さらには中途視覚障害者に対しても支援活動を実施している。
「目のことで困ったり、悩んだりしている人がいましたら、まず〝八盲〟に連絡をください。コーディネーターがお話を伺います」と森田敏子先生は話してくれた。

交流を積み重ねて
高等部専攻科の生徒は、国家資格であるマッサージ・あん摩・はり・灸の理療師免許を取得するために、毎日実習室で学んでいる。卒業後の社会で自立していくための一つの手段である。近年、晴眼者がこの分野に大きく進出してきて、将来に不安をかかえているが、一生懸命、その技術向上に励んでいる。生徒たちが臨床実習の一環として、一般の人を対象にした外来治療にも取り組み、1回500円という低価格ではあるが、人数に制限があるので予約を必要とする。治療を受けている人と、施術をしている生徒が交わす会話を通して生まれるつながりも貴重なものとなっている。
八王子盲学校は周辺の学校との交流も積極的にすすめ、小学生や中・高校生たちの学校見学を受け入れたり、自ら出かけて行く講演会を開いたりして実績を上げている。昨年度は14校の学校見学があり、12校で講演会を行った。

 

東京都立八王子盲学校 地域に向き合う

八盲小学部と散田小学校との交流は、今年で10年目を迎え、館中学校と中学部とのそれは3年目となっている。また、幼稚部は台町にあるふたば保育園と交流がある。
交流を通して相互の理解が生まれ、尊重し合う心が育つ。
ここに、当時散田小学校4年生だった小野勇太君の作文がある。

今日は もう学校との交流会。 いよいよ、もう学校の人たちがきて、「友だちさんか」をうたった。
つぎにみんなで集まって丸くなってじこしょうかいをした。
そして、みんなで「ジェンカ」をおどった。つぎに、もう学校からのだし物で、「13匹のねこ」と言うげきを見せてくれた。すごく元気でうたもうまくて、目が不自由なのに、作品てんのやき物だってうまくできていたし、もう学校の人たちってえらいなーと思った。
きゅうしょくの時間になってAくんという子といっしょに話しながら食べた。
Aくんは食べ終わったから、またおかわりをした。
「きゅうしょくおいしい?」と聞いたら、Aくんは「散田小のきゅうしょくはおいしい」と言ってくれた。
あっという間におわかれの会になって、「もうおわかれの会? はやいなあ」と言った。楽しい時間ははやくすぎるって本当だった。
「勇気100%」をうたってAくんとあくしゅをした。なみだがこぼれそうで、声がなかなかでなかった。
もう学校の人たちを見おくる時に大きな声で思いっきり「バイバーイ、ぜったいにわすれないよー」と言った。

障害を持つ者と持たない者が共に生きていく社会とはどんな社会なのだろうか。同じ高さの場所にいっしょに立って、いっしょに話し、いっしょに遊ぶ。そして、同じ人間として同じように生きていく、そんな社会がいつ実現するのだろうか。
(佐藤 栄 記)

 

One Two えいと 「や」の号

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薬用植物園

 

夜間中学校 国籍も年齢もさまざま

八王子市立第五中学校夜間学級
ここは15歳から79歳まで、5ヵ国、19名の生徒が学んでいる。病気や経済的理由で学校に通えなかった高齢者や、日本語がわからない在日外国人、そして不登校の若者……。さまざまな理由で義務教育を受けることができなかった人たちが通っている。
夜間学級の入学資格について、学校要覧にはただ、次のように書かれているだけである。「義務教育未修了で学齢を超過している者」。学齢とは中学校に就学義務のある満15歳を指しているので、一般的には15歳を過ぎても、未だ中学校を卒業していない人のことを指す。
現在、学級数はA組からE組までの5クラス、1クラス平均3~5名ほどで編成されている。主に日本語習熟度別で学級を分け、中国、フィリピン、タイ、ペルーなど、出身国もいろいろで、生徒数の半分以上を占めている。日本人と結婚したり、日本に移ってきて入級している人たちである。

昭和27年開設
八王子五中夜間学級の開設は昭和27(1952)年。東京都内には現在8校の夜間学級が併設されているが、八王子五中夜間学級は、都内で2番目に設置された学級である。
当時、八王子の地場産業の中心であった織物工場関係者などの強い要望を受けての開設であった。戦後の混乱の中で、新制中学校に入学できなかったり、卒業できずにそのまま働いている人たちの教育をどうするのかが社会的課題となっていた。織物業者たちを中心とする市民が市当局に強く働きかけをし、この要請を受けて実現されたのが五中夜間学級であった。発足した昭和27年から昭和30年前半にかけての在籍生徒数は毎年、60~70名で、現在の3倍以上となっていた。また、昨年度までの卒業者数は500名を超えている。

多摩地区では1校だけ
夜間学級を併設している学校は、多摩地区では八王子五中だけである。従って、通学範囲も広く、調布や東大和、武蔵村山などの各市から、生徒が通って来る。往復2時間以上をかける通学者もいる。入学動機も自らの志によるものなので、意志は固い。「字が読めるようになりたい」「手紙を書きたい」「英語の勉強をしたい」「日本語がわからない」などである。生徒たちの学ぶ意欲は昼間の中学生とは比べものにならないほど旺盛かつ真剣である。
「〝私は64歳です。勉強がしたいんです。お願いです。学校に入れてください〟と電話をかけて来られる方がいます」と教頭の上原直樹先生は言う。「心の底から絞るような声で、学校で勉強をしたいと訴えられ、そのお気持ちに思わず私の方も涙することがあります」。

授業は1日4時間
授業は夕方5時40分に始まり、夕食をはさんで、夜9時過ぎに終わる。学級活動の時間を除くと授業は毎日4時間。授業内容は昼間と同一だが、生徒の特質上、「読み書き計算」が基本となる。少人数では展開しにくい音楽、美術や体育、総合的学習などは生徒全員、みんないっしょに授業を受ける。

教室に和気溢れる
美術の山下先生。もう20年以上この夜間学級で教えている。「授業に行くと、今日は何をやるのと聞いてくるんですよ。静物画をやると言うと、外国の生徒は、絵はまだ一度も描いたことがないとか、年配の方は初めてだけれど描けるかなとか、元気な声が返ってくるんです。サークル状に生徒が座り、真ん中に置いた野菜や花などをさっそくクレパスなどで写生していく。皆さんホントに楽しそうに話をしながら描き上げていく。できた絵を黒板に貼りつけて、みんなでワイワイガヤガヤ感想を出し合っています。私はどんなに疲れていても、この生徒たちを前にすると疲れが吹き飛んでしまいます」と一気に、早口で話してくれた。
夜間学級の廊下や階段には生徒たちの作品が溢れんばかりにたくさん並べられ、掲示されていた。

心が一つになって
音楽の授業を見せてもらった。水曜日1時間目の授業である。
男性3名、女性10数名、男女別にピアノの前に弧をえがくように、生徒たちは腰を下ろして座っている。松葉先生の元気な声で授業が始まる。「こんばんは!」。制服がないので、服装もいろいろ。カラフルなTシャツやジーパンスタイルの若い人たちに混じってお洒落な感じの年配の生徒たち。少しの間、先生の話に耳を傾けた後、「笑顔が重なれば」という歌を歌い出した。いい歌だ。先生のピアノに合わせてみんな自然に歌っている。特に年配の女性の声がとてもいい。
全体をリードしているようだ。男性の若い人の声もいい。「口ぱく」がいない。全員、声を出して歌っている。音楽室いっぱいに歌が広がっていく。1つの歌をみんなで歌い合う。生徒たちの心がひとつになっているように見えた。
松葉先生も言う。「とてもいい歌になるんですよ。40分の授業なんて、すぐ過ぎてしまいます」。

 

夜間中学校 国籍も年齢もさまざま


補習授業
暑い8月のある日、訪れた夕方のある教室内で、2人の生徒がペンを握りながら、社会科の補習授業を受けていた。担当は近藤順一先生。先生の中国語を交えての話と、テープから繰り返し流れる気象情報を聞きながら、そして傍らに掲示された日本地図を見ながら、「地理」と「日本語」の勉強をしていた。静かであった。学ぼうとする生徒、少しでも正確に理解させようとする先生。圧倒された。

「お国自慢料理」
この夜間学級は、当然カリキュラムの中にいろいろな行事を取り入れている。遠足、修学旅行、講演会、作品展、連合体育大会などがあるが、特筆したいのはやはり「お国自慢料理」。自分の国の料理をそれぞれ作り、それを皆で食べ合うというもの。記録された映像を見せてもらった。ペルーのバナナチーズと紫とうもろこしのデザート。韓国のちぢみ、カンボジアの里芋とタピオカココナツミルク煮、日本の五目ちらし、中国のお粥と鶏肉の煮付け。めずらしい食材や、包丁さばきやフライパンさばきの見事さに驚く。腕達者の生徒がそろっている。料理が並ぶと教室はパーティー会場に変わっていた。

みんな輝いていた
日が暮れると昼間の生徒が下校し、夜間の生徒が登校してくる。「こんばんは!」の挨拶で始まる夜間学級。
まず、生徒は職員室の中に入り、自分の名札を裏返しして、自分の出席を表示する。まもなくチャイムが鳴り、学活の時間を経て、1時間目の授業を受けるため、それぞれの教室に分かれて行く。1校時が終わると、夕食時間である。弁当を広げて、談笑が始まる。時には先生も入る。夕食時間といっても、25分間しかない。けっこう忙しい。それでも、将棋やオセロゲームに興じる時がある。
4時間目の授業が終わり、夜間学級の1日が終わるのは、夜9時過ぎとなる。
「学校へ通え、授業を受け、勉強ができることがほんとにうれしいんです」と言って涙を流す生徒がいると聞いた。
夜間学級の教員として、やりがいは何かの問に、田辺秀夫先生は静かに答えた。
「自分の発意でこの学級に通ってくる、そういう生徒に対して授業ができることですね」。
(佐藤 栄 記)

 

One Two えいと 「ゆ」の号

One Two えいと 「ゆ」の号

 

One Two えいと 「ゆ」の号


ごみ収集の有料化を考える

 

友禅染 黒田染色工芸 八王子で今でも友禅染を

八王子駅北口から①番のバス乗り場で中野団地行きのバスに乗り、終点で降りると浅川の上流にあたる川口川が流れている。この辺りは中田遺跡でも知られるところで、団地のほかに畑があり、市の中心部から少し離れ、のんびりとした静けさが漂っていた。
川口川の堤防に沿って少し歩くと仲田橋がある。橋を渡り左折して間もなく「黒田染色工芸」の作業場があった。
案内された仕事場には、今しか見られないという、ほぼ染め上がった幟旗が大きく広がっていた。伸子張り(縮まないよう両端をとめるもの)で止められた細長い木綿の白地に、神社の標と行書の文字が染め抜かれていた。長さは約9メートルほどあると思う。
あきる野市の神社の注文で、150年前のものを再現したものである。これを友禅染の技法で染め上げる。来年8月に使うものだがめったにない注文だそうで、取材で見られたのはとてもラッキーと言える。この幟旗が大きく風になびく様子を私は想像してみた。
一般的に友禅染といえば、花鳥風月を題材にした優美な着物をイメージする。今、着物は特殊な職業の人か、冠婚葬祭の時しか着なくなっているので、当然優雅で高価な友禅染の需要も少なくなっている。仕方のないことだが、「かつて八王子にも何百件とあった染物屋も、今は数えるほどしか残っていない」とご主人の黒田正六さんは言う。そんな中で、着物以外ではあるが現在でも友禅染を続けておられる黒田さんは貴重な存在である。
お祭り絡みの染物で、獅子の神楽につける衣が薔薇の絵柄で染められていた。これは無形文化財として重宝されているそうだ。また国分寺の恋ヶ窪からの注文という、お祭りに欠かせない木綿の手拭も粋な柄だった。
着物のミニ判になるが、市松人形の着物を友禅染で染めたものも見せてもらった。辻が花の絵柄のものもある。「しぼり」もあり、市松人形ひとつでも顔を作る人、着物を染める人、小物を作る人など10人ぐらいの手が入っているという。こうして出来上がった伝統的な人形には、それぞれ作った人の魂を感じ取ることができた。

独学で学んだ友禅染
黒田正六さんは山形県天童市の生まれで、高校を出て上京し、友禅染の下絵となる「型紙彫刻」技術を覚えるため2年ほど弟子入り修行をした。型紙彫刻は、柿の渋を塗った特殊な紙に彫刻刀で絵柄の図案を細かく正確に切り抜いて、それを染物屋に納品する。その仕事を5、6年やっているうちに、型紙彫刻から覚えた友禅染の魅力に取り付かれた。
「自分で創作したい」そんな強い気持ちから独学で友禅染を学んだそうだ。型紙彫刻は決まった図案を彫刻するだけだが、染物ならば自分で考案したサンプルをつくり、幅広く創作の喜びが味わえるという。
この地で仕事を始めたきっかけは、親戚に八王子で型紙彫刻をやっていた人がいたから、その影響が大きいそうだ。
今回、幟旗の作業場を見せてもらって知ったのは、「米ぬか」で作った糊が友禅染には欠かせないことであった。

 

友禅染 黒田染色工芸 八王子で今でも友禅染を

生地に写し取った下絵の輪郭に沿って糊を引き、糊のない部分に染料を使って染め上げると、文字や模様が綺麗に浮き出すというものだ。それを高温の蒸気で蒸した後、水洗いしてから干して仕上げる。幟旗は糊を1キロも使うそうだ。
友禅染の他に、現在はぼかし模様のTシャツやスカーフ、セーターなどを幅広くてがけられている。四季にそって半年前から図案を考えるため、「どの品物も苦労する」という。

日本で後継者が育たないのは
黒田さんは創立以来35年、ご夫婦だけで弟子は採っていなかった。だが、せっかく覚えた「友禅染」を、このまま黒田さん一代で終わらせてしまうのは残念なことである。
「地場産業としてぜひ残して欲しいという要望はあるが」と黒田さんは言う。
現実は、コストが安い中国や台湾、韓国などに日本の技術者が行って技法を教えてしまう。実際に日本で千円かかるものが、東南アジアでは百円でできてしまうという事情から、ますます後継者が育たなくなっていると黒田さんは残念がった。
地場産業として守れない寂しさは、取材した私も強く感じた。行政も、何とか「友禅染」の技術の保護を考えて欲しいと願ってやまない。
(中山正江 記)

 

One Two えいと 「よ」の号

One Two えいと 「よ」の号

 

One Two えいと 「よ」の号


横丁さまざま

 

夜の八王子を眺める

夜の八王子市を眺める
「や」の号で八王子市内から見える山について書きましたが、今回は反対に山の上から八王子市を眺めてみることにします。それも日中ではなく夜の眺めの紹介です。
市民の山として親しまれている高尾山や陣馬山に登ると、山上から周辺の山々や市街地の眺めを楽しむことができます。高尾山や陣馬山の東側山麓はすぐ八王子市ですから、よく眺めると浅川の流れや中央自動車道、八王子駅周辺の繁華街を特定できます。さらに市内の地理に詳しい人ならば、いちょう並木が続くあたりの甲州街道、南大沢周辺の大型住宅地など、もっと細かい地点を指さすことができることでしょう。こうした昼間の眺めを楽しんだ人は多いと思いますが、夜の眺めを経験している人はずっと少ないのではないでしょうか。もっとも、夏の高尾山上では、夜景を売り物にしたビアガーデンが開かれていますから、あるいはそこから八王子の夜景を楽しんだという人は多いかもしれません。

 

One Two えいと 「よ」の号

最近は各地で名所、観光地のライトアップが行われたり、高層ビルの展望室からナイトウォッチングを楽しむなど、夜景に触れる機会が増えたようです。夜景は昼間と違って対象を細かく観察するのではなくごく大まかに眺めるので、ゆっくりと遠くを見るようにリラックスした雰囲気に浸るのが楽しみ方のようです。 部分部分というように細部を切り離して景色を眺める場合と違って、気分的なゆとりがあるだけ癒し効果があるのではないかといわれています。 私も時折、山上からの夜景を楽しみに出かけます。八王子市を眺めるには小仏城山、景信山、陣馬山がよく、それらの山へは何度も足を運んでいます。先述のように夜景は大まかな眺めを楽しめばよいので、あの辺の灯火がどこそこといった程度で眺めを楽しんでいます。しかし、街明かりにはそれぞれ違う表情があります。最近の八王子の街明かりにはあまり元気が感じられません。周辺の立川、相模原、町田あたりのほうがずっと勢いよく存在を主張しているように思うのは私だけでしょうか。
ところで、私は夜景を見ていると、郷愁に似た思いを感じることがよくあります。我が家の明かりを遠く眺めているという感情移入からか、はたまた夜景が醸し出す安息の時間という雰囲気が精神に作用を及ぼすためか分かりませんが、その気持ちが強く湧いてくるのは、夕暮れ時からその後1、2時間ぐらいの時間帯です。それは人々が帰宅から夕餉、団欒へと向かって、家庭生活がもっとも活気づく時です。そして色とりどりの明かりが交差する市街地よりも、その周囲に散らばる民家の灯火を眺める時の方がいっそう強く感じられるのです。その親しみの感情は、民家の灯火が消えた夜更けではあまり感じられなくなります。深夜ともなれば色彩こそ鮮やかですが、人の暮らしとは無縁の人工的な明かりでしかなくなってしまうのです。しかし、そんなことを考えながら夜景を見る必要はなく、ゆっくりと流れるひと時を楽しめばそれでよいのです。
私は暖かくなって山へ出かける時、少し遅い時間に家を出ることが多くなります。時間差を設けてコースや山頂での人出を避ける意味もあるのですが、山上からの夜景を楽しむことも大きな目的です。人出のなくなった山道を登り、そろそろ暗くなりはじめた頃に山頂に着き、その一角に腰を下ろして山麓にぽつぽつ点りはじめた灯火を眺めます。熱い飲み物など作ってゆっくりした時を楽しみ、やがて夜空の下いっぱいに市街地の明かりが広がった頃、満ち足りた気持ちで下山します。
山上からの夜景鑑賞は夜の山を歩くという点に注意し、よく整備されたコースを選べば思うほど危険ではありません。皆さんもちょっとしたヒマができた時、午後からでも近くの山へ出掛けて癒しのひと時を過ごしてみませんか。ただし、山歩きの服装と装備、照明器具の用意はお忘れなく。
(寺田 政晴 記)

 

One Two えいと 「ら」の号

One Two えいと 「ら」の号

 

One Two えいと 「ら」の号


ライブ

 

学生落語やぁーい。

落語は話芸といわれる。
高座に上がり、寄席に集まった人に、浮世の人情噺や滑稽噺を語りかける芸能である。
江戸時代、町人たちは町々につくられた寄席で、歌舞伎を楽しむのと同じように、落語を聞いて楽しんだ。
その落語を、学生に焦点をあてて取材しようと試みた。インターネットを開いてみると、落語研究会(落研)がある大学名が数校表示されている。八王子市内にある大学もその中にあった。
「よし、大学生の噺家さんに会いに行こう」と思い立った。

まず、法政大学に電話をかけた。
「……これこれしかじかというわけで、落語研究会の方とお話したいのですが……」
大学側「落語研究会は、市ヶ谷キャンパスにはありますが、多摩キャンパスにはありません」
「多摩キャンパスから、市ヶ谷の落研に参加している人はいませんか」
「いません」

次に、拓殖大学に電話を入れた。
「顧問の先生が外国に行っているため、ちょっと取材を受けるわけにはいきません」

首都大学東京(旧都立大学)にもかけた。
「みんな4年生になったため、今は活動していません」
「……」

何とか「落研」に行きあたろうとして、町田市の桜美林大学落研の女子学生に思いきって電話をかけてみた。
「八王子で大学生が落語をやっているところはありませんか」
「ありますよ」
「ど、どこですか、それは」
「台町にあるカレー食堂『これく亭』で時々学生演芸会をやっています」

これでやっと記事にできるぞ。
喜び勇んで連絡をとった。
「4月末まではやっていましたが、みんな4年生になってしまい、終わりにしてしまいました」
「えっ……」
「就職活動に忙しいんだそうです」
「今後やる予定はホントにないんですか」
「ありません。おいしいカレーならあります」

(本誌編集委員、中山正江さんは中央大学の取材に見事成功。おめでとうございます)

 

学生落語やぁーい。

今、世の中では一種のお笑いブームが起きている、という。しかし、お笑いの中味が変質してしまったらしい。昔からある古典落語のお笑いは影をひそめ、コントや漫才の方に人気が集中しているという。特に若い人たちにその傾向が強い。
ある落語家がテレビでいっていた。
「寄席最前列の席に座った若者は、私の噺についに一度も笑わなかった。何とか笑わせようと死に者狂いでやったら、疲れてしまい、私の方が笑っちゃいました」
各大学の落研に多くの学生が集まってきたのは昔の話である。今や、人気があるのは、早いテンポで展開されるコントなどが中心となっている。
「シクラメンのかほり」や「愛燦燦」など数々のヒット曲をつくった小椋佳さんも嘆く。
「わが国本来の言葉はどこへ行ってしまったのだろうか。時間を追うごとに、言葉・文字・文章に代わって、音、音楽・映像などが表現の主役の座に登場してきた」(「公共共済友の会だより」93号より)
落語は言葉が命である。
八っつぁん、熊さんの落語は、社会の変容に伴って、隅に追いやられてしまったのか。人が生まれながら持っている滑稽さやおっちょこちょいを巧みな言葉で表現し、演じていく落語の世界は、今の時流に合わず、まどろっこしいのかもしれない。そうはいっても、しかし、落語に面白さを覚え、今も根強く興味を抱き続けているご同輩も決して少なくないのではないか。
学生には学生らしい落語があると思う。プロの噺家にはない初々しさがあり、一生懸命になって語る演技に大きな魅力を感じている人もたくさんいるはずだ。
八王子の大学生よ、落語を聞かせてくれ、お願いします。
(佐藤 栄 記)

 

One Two えいと 「り」の号

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リサイクル

 

お直しやさん フリーステッチ

服のリフォーム
お気に入りの服が流行遅れになったり、自分の体型が変わったり、服がちょっと破れたりで「この服、どうしようか?」と思うことはありませんか。そんなときにはJR西八王子駅南口徒歩3分、スーパーアルプスの南斜め向かいに店を構えるリフォーム屋さんを訪ねてみてください。「お直し屋さん フリーステッチ」と青と白で書かれた看板が目に入り、すぐわかります。

お店を訪ねて
店長は井出澄子さん。店名の「フリーステッチ」は看板デザイナーの息子さんが命名し、看板も作られたということです。店内に入ってまず目にするのは壁のボードに掛かっている各色の糸、糸、糸。カラフルできれい。20平方メートル程の店内には作業台、縫製用・まつり縫い用・革製品用のミシン等が備えられている。
井出さんは九州小倉出身。新宿にある文化服装学院を卒業後、40年以上にわたり洋裁に関わってこられた。自分のお店をもつ前はデパートに勤め、そこでお直しをしていたが、中間で手数料を取るデパートのお直し代は高いと考えて、平成4年に独立。実妹の丹下久江さんとお店を持たれた。

お直しの内容
10年前から変わっていないというお直しの値段(消費税込み)は、肩直し2500円~、袖直し2000円~、スカート丈直し2000円~、ズボンのウエスト直し1900円~等。
以前は肩パットの入った肩幅の広い上着が多かったので、肩幅をつめる人が多かった。近ごろは丈が短くなっているので丈をつめる人が多く、Tシャツの裾をカットすることもある。
リフォームだけでなく仕立てもなさり、変わったところでは反物を洋服に仕立てたり、あるいはすでに和服になっているものをベストとスカートに直したり。なかには、朝、喪服を持って来て「今日着るので直して欲しい」という人もいたとか。こんな場合でも、なんとかしてあげたいと、断ることがないという。
取材をしている間に年配の男性がみえた。普通なら主婦がするようなタオルの縁かがりや婦人用パジャマのほつれの繕いを頼んでいたようで、これらを受け取って帰って行った。これから入院している奥さんの所に届けるという。こういう人のためにボタン1個をつけることから引き受けてくれる。困った人の心強い味方です。何でも相談してみてください。

最近の傾向
近ごろは中高年がおしゃれになったという。年をとり背中が丸くなるとワンピースの前が垂れ下がってしまうので、横にダーツをいれて背中に丸みをつけるというお直しも引き受ける。老人が着易くて、おしゃれな服を考案したいと思うが、お直しが忙しくて、なかなかそこまで手が回らないと話された。
西八王子駅にエレベーターが付いてからは障害者が街に出るようになり、外出するに当たっては様々な物が必要になったようで、車イス用の膝掛けがずり落ちないようにゴムを入れて工夫してあげたり、車イスのバッテリー用の袋にファスナーを付けてあげたりして喜ばれている。こういった人たちとは最初は言葉が理解できず、意志の疎通がうまくいかなかったが、そのうち要領を得て交流ができるようになり、今では遠出をするとお土産を買って来てくれるようになった。井出さんの明るく、からっとした気っぷの良さと親切な人柄には皆が引かれるようで、西八王子駅の電車の待ち時間に気軽に立ち寄って話をしていく人もいるという。
ご自身の店を持たれたので「仕事に定年なし、元気な限りは続けたい」と話され、言葉の一言ひとことに洋裁が〝好きで、好きで〟という気持ちがあふれていた。

(西川 圭子 記)

 

One Two えいと 「る」の号

One Two えいと 「る」の号

 

One Two えいと 「る」の号


ルート16・20

 

ルポルタージュ2005

―今年の出来事―

1月
元旦、大晦日からの雪も止んで一面の銀世界が出現した。3日、「三宅島八王子の会」の人たちが南大沢の「ラ・フェット多摩・南大沢」で200㎏の餅を搗いて市民にふるまった。7日、東京都新年度予算案で南大沢に「多摩西警察署(仮称)」新設のための用地買収費7億円計上と発表される。24日、昨年4月から授業が始まっていた不登校生徒のための「高尾山学園」の入校式が行なわれた。同日、4年半の避難生活を送り、2月1日から帰島が始まる三宅島住民の代表が市長を訪問して謝意を伝えた。

2月
4日、市の産業政策課主催で「若者の就労支援セミナー」が開かれた。同日、中央道の都心から八王子までの料金を撤廃するよう求める「八王子市議会議員の会」が結成され、署名活動を展開していくことになった。この頃、JR八王子駅前の丸井跡地へのパチンコ店進出反対署名が地元町会などを中心に進められた。27日、「第55回全関東八王子夢街道駅伝競走大会」が快晴の下、7部門279チーム約1400人の出場で開催された。

3月
5日、「税務署から来た」と偽って65歳女性から健康保険証を詐取する事件が発生した。9日、八王子市住宅・都市整備公社が「川口リサーチパーク」の用地140haを都市整備機構から4億7、500万円で買収し、物流拠点施設誘致と発表。12日、八王子市民活動協議会が定年退職を前にした50歳以上の男性を対象に、「お父さんお帰りなさいパーティ」を開催した。12日、学生車屋が3台の人力車で商店街を走り街にレトロな雰囲気を演出した。23日、国交省の地価公示で市内中町の下落率が商業地都内トップとなる。27日、恩方の炭焼き三太郎を題材にした講談を神田陽司が「浅草木馬亭」で語る。この月、市内山間部で山火事あいつぐ。

4月
1日、八王子高陵高校跡地に204人宿泊可能な「高尾の森わくわくビレッジ」が開設された。7日、都立大学が「首都大学東京」と改称されて初めての入学式が挙行された。8日、季節はずれの気温25、9度を記録。また29日には4月としては史上最高の32・1度を観測した。この月、市職員や学生らでつくる「八麺会」が「八王子ラーメンマップ」を作成し28店を紹介する。また、前年度市内の放置自転車の数が13万4、000台で、全国8位から24位へと改善の傾向と発表された。

5月
10日、都内で激しい雷雨があり雹も降った。市内ではガレージの屋根やビニールハウスに穴があく被害が多発。11日、丸井跡地パチンコ店反対署名6万人分を東京都に提出。

6月
1日、圏央道訴訟で住民側が敗訴、「環境より利便性が優先」と判決。住民側は10日に控訴する。3日、高尾山ビアマウントが早々と開業。10日、市議会で正副議長の改選があり、新議長に飯沢俊一議員、副議長に秋山進議員が選ばれた。24日、東京都議会議員選挙が告示され9日間の選挙戦に突入。28日、気温34・3度の猛暑を記録する。

7月
3日、都議選投票日。即日開票され、定員5名の八王子選挙区は自民2、民主・公明・共産の各1名が当選し前回と勢力図は変わらず。10日、民営化に向けた郵政法改正案が衆議院を通過するが参議院で否決され、小泉首相は衆議院解散総選挙を断行する。19日、市内に「道の駅」を設置すると発表。28日、気温36・9度を記録。30日、高校野球大会東京都予選決勝で明大中野八王子高校が日大三高に敗れる。同日、高倉町で起きたスーパー射殺事件が未解決のまま10年目を迎えた。

8月
5日から7日まで八王子まつり、一段と山車と神輿中心の地祭り的傾向強まる。24日、カジュアルファッションの「マルカワ」が80億円の負債を抱えて倒産し民事再生法を申請。

9月
2日、八王子市の助役を一般的に副市長と呼称すると発表。8日、重い心臓病で移植が必要な井口羽純さんへの支援募金が開始される。目標額は8千万円。11日、衆議院議員選挙投開票。八王子選挙区は自民党の萩生田光一氏が圧勝。26日、ミニ公募債の「みどり市民債」の受付開始。年利率0・73パーセント。この月、小学校給食調理器からアスベストが16校で検出される。

10月
22日、井口羽純さん支援チャリティコンサートが開催される。また、ダイヤルQでの募金も24日から始まる。24日、甲州街道いちょう並木で銀杏拾い。28日、市職員覚醒剤所持で逮捕・懲戒免職となる。同日、JA職員2、340万円着服で懲戒解雇。29日、千代田区で行なわれた「江戸天下祭」に上八日町の山車と山車人形が参加。30日、市政世論調査で市内定住希望が8割超す。自然環境の良さと交通の利便性が評価された由。この月、中散田町会から『中散田の歴史』が発行された。

11月
10日、市内で昨年より23日早く初霜が観測された。14日から派遣社員の悩みに答える無料相談が八王子ユニオンで始まる。10日・17日、市内でニートをめぐる相談会が開催された。30日、ダイエー北野店が閉店。この月、井口羽純さん支援のFM局ネットがつくられる。また、西八王子の魅力を再発見しようと、「昭和の香り散歩地図」が作成された。
(澤本宣男 記)

 

One Two えいと 「れ」の号

One Two えいと 「れ」の号

 

One Two えいと 「れ」の号


霊園

 

レトリバー 介助犬

レトリバーと介助犬
レトリバー、レトリバー、レトリバー……レトリバーと聞いて真っ先に思い浮かんだのは、以前我が家で飼っていたゴールデン・レトリバー。そして盲導犬、聴導犬、介助犬、いわゆる補助犬だった。
今回レトリバーの取材をするにあたって、電話帳を開いて犬に関する項目を調べてみると、全国介助犬協会という名前が目についた。レトリバーから連想された介助犬。この連想に引き寄せられるように協会に取材を申し込んだ。
ところが「One Two えいと」では今から10年ほど前、「か」の号で既に「介助犬」の取材が行われていたことを後になって知る。基本的に本誌では同じテーマを扱わないことにしているのだが、10年の間に介助犬を取り巻く状況が大きく変わったことを鑑みて、今回「レトリバー」の中でも介助犬について今一度触れることとする。
1991年、当時八王子在住の女性がアメリカへ渡り、介助犬団体より貸与された一匹のレトリバーを連れて帰ってきたのが日本の介助犬の始まりとされている。この間何より大きい変化となったのは2002年に制定された「身体障害者補助犬法」である。この法律によって現在では介助犬は盲導犬、聴導犬とともに法的にも「働く犬」として認められ、各施設や店舗への介助犬の出入りも認められるようになった。

レトリバーの特徴
もとは猟犬として活躍したレトリバーにはノバ・スコシア・ダック・トリング・レトリバー/カーリーコーテッド・レトリバー/フラットコーデッド・レトリバー/ラブラドール・レトリバー/ゴールデン・レトリバー/チェサピーク・ベイ・レトリバーの計6種類がいる。
なかでも有名なのがラブラドール・レトリバーとゴールデン・レトリバー。現在では本来の猟犬としての役割だけでなく、麻薬捜査、水難救助、雪崩遭難者救助、地雷探査などで活躍している姿を誰もが一度は目にしたことがあるのではないだろうか。
なかでも盲導犬や介助犬として大活躍しているようだ。
なぜレトリバーが介助犬に多く用いられているのか。それは一重にレトリバーの誰に対しても穏和で友好的な性格によるところが大きい。レトリバーを飼ったことのある方ならよくご存知と思うが、決して番犬には向かない。そうした性格が介助犬としての適性に一役買っているらしい。
もちろんレトリバーすべてが介助犬に適しているのか、というとそうではない。
たとえ健康で性格が良かったとしても、それだけでは介助犬になることはできない。介助犬は他の補助犬以上にオーダーメイド性が高く、実際にその介助犬とともに暮らすことになる使用者と本当にマッチした介助犬が求められる。
こうした困難もあって2006年1月現在、全国で認定されている介助犬は28頭という少数に留まっている。まだ歴史も浅く、より適した介助犬を育てていくことの難しさも窺える。

介助犬のトレーニング
さて、社会福祉法人全国介助犬協会では月に一度見学会を開いて介助犬のことをより詳しく知ることができる機会を設けている。私は介助犬として活躍するレトリバーを取材するべく、まずはこの見学会に参加することにした。週末のこの日、小・中学生なども含め45人の見学者とともに介助犬についての説明を聞き、実際の介助犬トレーニングの様子を見学した。
落ちたものを拾う、冷蔵庫の開閉、衣服着脱の手伝い……などなど。その仕事ぶりにはつくづく利口だなぁと感心する。もちろんこうした介助犬としての仕事も訓練士による日々のトレーニングによるもの。全国介助犬協会ではほめて育てることを基本にしている。生まれながらの性格を見極めた上でトレーニングを重ね、さらには使用者それぞれの障害に合わせた介助動作をトレーニングする。それにはかなりの費用、期間を要することになってしまうが、協会ではこうしたトレーニングを大切により良い介助犬を育てていくことを理念として掲げている。

障害のある方が暮らしやすくなるために
見学会の後、高校生のときから介助犬の育成・普及活動に関わってきたという明地久理子さんは、「介助犬によって障害者の方たちの生活がもっと暮らしやすくなることが目的なんです」と語る。そのために全国介助犬協会ではトレーニングだけでなく、多くの人に介助犬について知ってもらう機会も提供しているのだ。各地で見学会、講演を重ね、5月21日には富士森公園で開催される福祉まつりにもPRのため参加予定。
まだまだ八王子市内では介助犬の活躍する姿を見かけることは少ないが、今後介助犬を見かけた際、私たちはどのように接しら良いのか。明地さんによると「さりげなく普通の人と同じように接してほしい。もし使用者さんが困っていたら使用者さんに何かお手伝いしましょうか?と尋ねてほしい」とのこと。犬好きの人にとってはついつい騒ぎ立ててしまいそうなところだが、そこは十分に気をつけたい。
全国介助犬協会では年間4頭の介助犬を育成することを目標に日々トレーニングを重ねている。こうした地道な努力の末に八王子の街中でも普通に介助犬を見かけるようなときが近い将来やってくるかもしれない。
(増沢 航 記)

 

One Two えいと 「ろ」の号

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One Two えいと 「ろ」の号


ロボット

 

ロケ地となった高尾十一丁目茶屋

高尾山は古くから信仰の山としての歴史もあり、東京はもちろんのこと他県からも多くの人々が訪れる。都心からは気軽に日帰りができて、四季折々の花や野鳥も楽しめる。
海抜600メートルほどの山であるが、ケーブルカーやリフトを利用するのもよし、元気な人は登山気分で一汗かくこともできる。老若男女が身近に自然を満喫できる、そんな山が高尾山である。
すでに「えいと」でも高尾山とケーブルカーを記事としてとりあげているが、今回はテレビドラマのロケ地となった「十一丁目茶屋」にスポットをあてることにした。
平成15年10月~12月まで、毎週火曜日の夜10時からフジテレビで、中園ミホの脚本による「ハコイリムスメ」が放映された。そのドラマの舞台となったのが「十一丁目茶屋」である。
清滝駅からケーブルカーに乗って山上に着くと、2分ほどで見晴らしのよい「かすみ台」に出る。そのすぐ隣が創業明治31(1898)年を誇る「十一丁目茶屋」だ。店の前には広場があり腰を掛けて休めるようになっている。店には美味しそうな「だんご」や土産物がずらりと並び、思わず立ち寄ってみたくなるような茶屋である。
ロケ地となった経緯について、店主の高城正守さんに詳しくお話を聞くことができた。

ロケ地に選ばれた理由
最初脚本家の中園さんがこの茶屋に来て食事をしたことから、中園さんの頭のなかにあった、2人姉妹をテーマにした家族愛のストーリーにこの場所こそがふさわしいと閃いたという。それがきっかけとなって、高城さんに共同テレビのディレクターから話があった。
ケーブルカーから近いこと、高城さんの住まいがこの場所であったこと、茶屋からの展望がよく、ロケにふさわしい広場があることなど、様々な条件が揃っていたことで、ロケ地の候補となったそうだ。それに対して高城さんは、「この店だけではなく、高尾山全体のPRになると思った」ということでOKされた。

「ハコイリムスメ」のストーリーの概略
地井武男と吉田日出子扮する、茶屋を営む夫婦に2人の娘がいた。姉は飯島直子、妹は深田恭子という人気女優である。
姉が実家の茶屋を継ぐことになり、妹は都会のOLで疲れていた。実家の茶屋はほのかな温かみがあり心が癒される、というホームドラマで、比較的若い女性に人気があったラブストーリーでもあった。
ロケは平成15年9月4日~11月27日までの3ヵ月、週2回木・金で行われ、土・日は客が多いので避けてもらったそうだ。朝は6時~夜12時ごろまで撮影することもあったという。
11月は紅葉見物の人が多いので、特に早朝や深夜の撮影になった。スタッフは30名ほど。ロケ弁当では寒そうだったので夜食にきのこうどんや、温かいそばなどを出してあげて喜ばれたそうだ。

ロケ中のよもやま話
「ハコイリムスメ」は全国ネットで放映され、なかでも北海道の視聴率が一番高かったという。
「北海道は10月~12月の夜となれば寒いから、テレビドラマに人気があったのでしょう」とは、高城さんの感想だ。
ロケ中は毎日撮影があると思ってか、それを見学しようとして、北海道、広島、新潟と大変遠いところから訪れた人たちもいた。だが残念ながら見物人のいるところでは撮影はしない。そのため早朝とか、深夜に行われることが多くなった。だから見学は不可能だ。
ロケ中は鍋の音や食器の音も禁止されて、息を潜めている状態だった。
俳優さんが何度も台詞を言い直し、ワンシーンに6時間もかかった時もあった。ドラマに出てくる台所は、「十一丁目茶屋」の台所を、そのままセットに再現して行われたという。
11月の紅葉のころ、通行人となって高城さんもエキストラで出演したそうだ。
ドラマの中に「十一丁目茶屋」の屋号をそのまま使ってもらった。
ロケに当たっていろいろな規制はあったが、ドラマで映ったということから、以後お客さんかずいぶん増えたという。

「十一丁目茶屋」のあゆみ
今の店主は4代目で、正守さんの曽祖父に当たる正次さんが、明治31(1898)年に講の休憩所として始めた。そのころは観光地ではなく真言宗の大本山として歴史ある信仰の山だった。茶屋となったのは明治41年ごろからで、当時はケーブルもなく営業用の荷物は馬かリュックで担いで登ってきたという。大正14(1925)年にケーブルの工事が始まり、昭和2年に開通したが、戦時中閉鎖したりして、昭和24年から現在のように順調に運行されるに至った。
「十一丁目」というのは、薬王院を基点としケーブルの山麓(清滝)駅前が36丁目になり、この茶屋は11丁目に当たるのでそのまま「屋号」となったそうだ。
ここは地の利もよく、茶屋の座敷からの展望が特にすばらしい。取材した日は若葉のなかに桜が交じり絶景だった。脚本家が目をつけたのが私にも納得できた。
(中山正江 記)

 

One Two えいと 「わ」の号

One Two えいと 「わ」の号

 

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わがまち 八王子

 

八王子の野鳥シリーズ ワシタカ

「ワシとタカは違うのですか」と聞かれることがよくあります。実は鷲と鷹の厳密な区分はありません。大きい方をワシ、小型の方をタカという傾向はありますが、例外もありますので、ここでは区分しないで「ワシタカ類」ということにします。ワシタカ類の多くは肉食の大型鳥類であり、生態系の高位捕食者の地位を占めています。餌となる動物を捕まえるために大きな脚に鋭く長い湾曲した爪を持ち、また鋭くとがったクチバシを持っています。多くのワシタカ類は一夫一妻で、オスよりもメスのほうが大きく体力も優れているという特徴があります。ワシタカ類にフクロウの仲間を加えたものを猛禽類といいます。猛禽類は小鳥や魚、ウサギ、ヘビ、ハチなどの獲物を野山でハンティングするため鋭い目で獲物を追い求めています。
日本には約30種類のワシタカ類が生息していますが、そのうちミサゴ、ハチクマ、トビ、オオタカ、ツミ、ハイタカ、ノスリ、サシバ、クマタカ、ハイイロ チュウヒ、ハヤブサ、チゴハヤブサ、チョウゲンボウの13種が八王子・日野カワセミ会の八王子市内での観察で確認されています。

 

One Two えいと 「わ」の号

トビは浅川の上空などでごく普通に見られます。サシバ、ハチクマ、チゴハヤブサ、ミサゴは渡りをするワシタカで、春と秋に八王子の上空を通過しています。その中でも、秋の晴れた日に関東から北の地方で繁殖活動の終わったサシバ親子が100羽、200羽と集団で渡って行く姿に遭遇すると感動を覚えます。八王子・日野カワセミ会では毎年、9月下旬から10月上旬までの約3週間、下恩方の遠矢堀公園、高尾山、陣馬山などで何羽のワシタカが渡って行くかカウント調査をしています。年により数は異なりますが、毎年2000程度のサシバが越冬のため南の国を目指して通過していることが判明しました。
トビ、オオタカ、ツミ、ノスリ、チョウゲンボウは八王子で繁殖しています。環境庁のレッドデータブックで絶滅危惧種に分類されているオオタカは10~20巣ぐらいが丘陵地で確認されていますが、このような所はいまだに開発の危機にさらされています。最も小型のワシタカであるツミは近年市街地内の公園などに、またハヤブサの仲間のチョウゲンボウは市街地内のビルや橋の下などで子育てするケースが増えていますが、八王子も例外でなく、営巣地が幾つか観察されるようになってきました。市街地に進出した理由はよく分かりませんが、このような繁殖行動は静かに見守りたいものです。
多摩地方のワシタカの王者はクマタカといわれています。クマタカは黒い顔と後頭に冠羽を持ち、翼の幅が広い褐色の大きいタカです。亜高山から低山の森に生息し、ノウサギ、ヤマドリ、キジ、カケスなどを餌とし、一年中、同一地域で暮らします。奥多摩地方では昔も今も繁殖しています。八王子では姿を観察することはできますが、繁殖は確認されていません。しかし、恩方地方では昔は繁殖していたらしいという話をきくことがあります。大きく幅広い翼を生かして風を捕らえ、旋回するクマタカはまさに王者に相応しく、豊かな自然環境のシンボルです。クマタカが八王子で繁殖できる環境を取り戻したいですね。
(八王子・日野かわせみ会会長 粕谷和夫 記)

 

One Two えいと 「ん」の号

One Two えいと 「ん」の号

 

One Two えいと 「ん」の号

 

 

「えいと」終刊の集い開催さる

1995年に産声を上げた「えいと」は、2006年9月に発刊された「わ」の号で終刊を迎えました。最後まで続けてこられた感謝の集いを、11月18日(土)午後2時より八王子市労政会館で開催しました。読者をはじめ取材に協力してくれた方、スタッフなど30名の参加でした。
冒頭、本誌創刊号より「わ」の号まで「ライアン・コネルの八王子日記」を連載し続けてくださったライアン・コネルさんの、母国オーストラリアと日本の文化の違いを、子どものころの思い出を交えての講演がありました。
経過・今後の方針など報告のあと、懇親会に入りました。出席者全員が、この11年間の思い出など時の経つのも忘れて話し合い、予定時間をオーバーした午後5時に閉会となりました。長い間ありがとうございました。

 

2001年9月15日(木曜日) 朝日新聞

2001年9月15日(木曜日) 朝日新聞

 

─ 記事全文紹介 ─

50音順に特集、八王子のタウン誌
折り返しは「ね」 大変だったね 発行から6年 主婦や教員奮闘

郷土の風物や日常のささいな1コマを紹介している八王子市内の季刊のタウン誌が、ネコを特集した今月発行の「ね」号で折り返し点を迎えた。ひらがなの50音順にテーマを設定するユニークな編集方針で、約6年がかり「24音」を達成。編集部では「廃刊の危機もあったが、ボランティアのがんばりで発行できた」と話している。
このタウン誌は「One Two えいと」で95年12月、出版関係者や郷土史家、大学教授らが創刊した。誌名は「1・2・3」の掛け声に、八王子にちなんで最後を「8(えいと)」にした。
創刊の「あ」号は市内を東西に流れる浅川を特集した。今では河川の水質ランキングで低い評価を受けている浅川も、戦前は子どもたちが泳ぎ回るほどきれいで、格好の遊び場だったことがつづられている。
八王子の街並みを彩るイチョウ並木を特集した「い」号を発行した直後、早くも廃刊の危機に陥った。印刷・発送代、執筆者への原稿料がかさみ、創刊前に賛同者から集めた約150万円の資金が底をついたのだ。
自費出版を応援する印刷会社を経営している編集長の清水英雄さん(61)は、こう振り返る。
「北条氏の八王子城、甲州街道の大きな宿場町、絹織物の産地と、八王子は多摩地域で最も歴史が深い。なのに文化を育む土壌にかけているんです」 こうした文化事業を支援する企業はほとんどなく、行政の理解も不十分だ。それまで発行されたタウン誌やミニコミ誌は、いずれも財政難から短命に終わったという。
そこで「One Two えいと」では、主婦や教員らボランティアに原稿料なしで記事を書いてもらうことにした。清水さんも自ら筆をとり続ける。当初は「営利的」と抵抗があった広告を目立たないように掲載し、資金を補った。広告が八王子の企業の動向をうかがわせる生活情報にもなると判断した。 以後、特集は「芸者衆」「地酒」「銭湯」「そば」「高尾山」「ニュータウン」…。地域の特色を浮き彫りにするテーマばかりで、昔話を語る人や街角の飲食店も丹念に紹介してきた。
次回12月発行の「の」号は「八王子の農業」に決まった。今後、順調に行けば6年後に「ん」で完結するという。
ただ、取材スタッフが固定化し、ネタ不足に悩むことも。「ひとつのテーマを掘り下げる記事をもっと掲載したい」と言う清水さんは、新風を吹き込むライターを募っている。