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ふだん記

ふだん記 ~ふだん記運動について~

 

「ふだん記」運動は故橋本義夫氏(1985年没)の提唱によって1968年に八王子市で生まれました。
橋本さんは「下手に書きなさい」と、まず文章を書くことをすすめました。「上手本意の競争をしないで、人生の報告書を一冊残すこと。美文名文などより、自分の生きてきた事実をありのままに記録すること」をすすめました。そして、この運動が拡がって庶民自身の歴史が市民権を得ることで、人類史上かつてなかった新しい文化が芽生えると考えていました。
この主張は、職業や地位、男女の差をこえて広く庶民に受け入れられました。読む側・見る側にいた人々が、書く側・作る側にまわり、自己表現の可能性にめざめたのです。今では全国各地に「自分史」と名の付くグループや、自治体によるセミナーまでありブームの様相を呈していますが、その魁となった運動です。
全国に27グループある「ふだん記」は、それぞれ年2回ほどの機関誌を出して、「独立するが孤立しない」をモットーに交流しあっています。原則として、会則も会費もないこのグループの、会員の条件は文を書くこと、文友と呼ばれる仲間と手紙を出し合って交流をすることです。一人で書いているより大勢の人と交流しながら書いて、ある程度書きためた文章を編集しなおして一冊の自分史として出版しています。こうして生まれた個人本が約500冊ほどになります。「新人優先」もこのグループの特徴です。詳しくお知りになりたい方はご遠慮なくお申し出ください。

グループ誌の刊行
グループに参加している会員が、日常生活の出来事や長い人生の思い出などを、原稿用紙2,3枚につづり、各地のグループがそれぞれ年2回ほど機関誌を発行しています。どこのグループへでも投稿ができるため、会員相互の交流の輪がひろがって活発な活動を続けています。

『ふだん記本』(A5判)
「ふだん記」に参加して、ある程度書き慣れてきて、自分の書いた原稿がたまったところで、自分だけの本を刊行するようになってきました。配本された文友は感想文を書き支援の喜捨をして、それを支えあっています。

『ふだん記新書』(B6判)
コンパクトなB6判で、原稿量・製作経費の節減による普及効果もありましたが、なによりオイルショック以降の社会情勢の危機意識のあらわれでもあります。省資源,省エネルギー化の中で庶民の声を発表していこうという姿勢があらわれています。

 

橋本義夫の生涯と自分史の源流

プロローグ

「ふだん記」と「自分史」

色川大吉


昭和30年代の初めのころ、困民党に興味をもった私は沼謙吉さんに案内されて橋本さんをお訪ねした。大学の講師をしていた若い私を橋本さんは「先生」とよび、「八王子の困民党なぞつまりませんわ」といって、乗り気を示さなかった。そのころは何をしても世に認められず、鬱屈しておられたと思う。
私が北村透谷を研究し、三多摩自由民権運動の史料発掘にのめりこんでいると、橋本さんがこの方面でも先に手をつけていることを知った。私が民衆史の研究の重要性を提示したとき、すでに彼はその一部を実践していた。自分史についても同様である。私が昭和40年代のおわり、さまざまな自分史を基礎にすえた昭和史を書こうと苦闘していたとき、橋本さんは「ふだん記」運動のなかで、たくさんの庶民に自分の生きてきた記録を書かせていた。「ふだん記新書」の名で出されていたが、それは立派な自分史であり、感動的なものが多かった。ただ、「自分史」という言葉を使っていなかっただけだ。
昭和49年のはじめ、私は橋本さんの家にかよい、根掘り葉掘り彼の生きてきた足跡を聞きだした。椚国男さんにも協力していただいた。そして「中央公論」8月特大号に発表したのが、「現代の常民--橋本義夫論」(100枚)だったのである。この橋本の軌跡に加え、私自身の自分史、それに天皇の個人史の三部を構成して、翌昭和50年に『ある昭和史─自分史の試み』を刊行し、「自分史」という造語を意味づけた。だから、造語し提唱したのは色川大吉でも、自分史の生みの親は「ふだん記」の人々であり、その先覚者、実践者は橋本義夫であったといえる。
いまや「自分史」は全国津々浦々にまで大流行し、21世紀の民衆文化の中心になろうとしている。最近の年間の刊行は1万点とも2万点とも聞く。この新しい文化運動を創り出したのが八王子の橋本義夫であり、それを支えた「ふだん記」の人々であることを市民は誇りにしてほしいと思う。

(歴史学者)

 

農村での教育運動

村の青年たちと、「教育の家」運動を起こし、川口村楢原の念西庵で日曜学校を開き、良い本を読ませるために、村の図書館の必要性を訴えた。回覧誌「自然人」、「揺籃」を発行。また、生活改善、悪習打破の運動を行った。

 

農村の人々の中で読書する人は殆ど無く実に想像以上のひどさです。「教育」とはなんの事だか知らず、唯小学校へ通って国定読本を読むことが教育の全部だ位 に考えている人が大多数です。無力でも私達は小図書館を(大げさですが)つくり、青年が伸びて行くために青年教育をなそうと企てたのです。「教育の家」に は専任教師がありません、教師の代わりに良書を集めます。自然人社では書籍を単なる書籍とせず、教師として取り扱います。自然人社とはこんな問題を少しづ つでも解決して行くために出来た精神運動の小団体です。

〈1927(昭和2)年に書かれた「教育の家」募金趣意書から部分抜粋〉

 

書籍を小脇にした20歳の橋本

書籍を小脇にした20歳の橋本

 

念西庵 1937年写す

念西庵 1937年写す

 

書店揺籃社を基盤とした文化活動

良書を読ませようと、1928(昭和3)年に開店した書店揺籃(ようらん)社が軌道に乗るとともに、多摩地方の文化センター的な役割を担うようになった。文化活動に力を入れ、八王子周辺の農村地帯に残る複式授業(複数の学年を1教室で授業)の撤廃を働きかけた。また、現在の多摩ニュータウンあたりにも存在した、無医村の解消運動を起こし成功させた。
1937(昭和12)年前後には武蔵毎夕新聞など地方新聞への寄稿が多く、現存するだけで約180篇に達し、多摩地方の政治から国語問題まで広い範囲で論陣を張った。

 

書店揺籃社を基盤とした文化活動

 

書店揺籃社を基盤とした文化活動

 

書店揺籃社を基盤とした文化活動

 

文化映画「村の学校図書館」

文化映画 「村の学校図書館」は、岩波書店「教育」誌に掲載された旧恩方村(現八王子市)の小学校での活動記録(広沢堯雄)をもとにしてつくられたもので、文部省推薦となった。図書もほとんどない当時の貧しい山村の小学校で、皆が努力して学校図書館をつくる物語である。これを支援したのが教育科学研究会のメンバーだった橋本等であった。先生と児童が書店を訪ね図書を注文し、橋本は引き受け、後日配達するところでその映画に出演した。
軍人として、中国東北部のハルビンに派遣されていた八王子の出身者が、現地でこのシーンをみて橋本に手紙を寄せたものが残っている。

 

「村の青年団長の家」の場面で、 古雑誌を読む子供たち

「村の青年団長の家」の場面で、
古雑誌を読む子供たち

 

「町の本屋さん」の場面で、 購入図書リストをみる橋本

「町の本屋さん」の場面で、
購入図書リストをみる橋本

 

(写真提供 菱山三郎氏)
文化映画「村の学校図書館」のスチール

 

第2次大戦中における行動

米英両国と戦争を始めたのは予期せぬ事態で、1920(大正9)年以来の非戦主義を捨て、約1年戦争協力をした。その後は敗戦を予測し、庶民の立場から早期終結を求める非戦論者となった。そのため1944年12月には治安維持法違反で検挙され約140日余監禁された。敗戦後、戦争責任の追及が不十分なことに、怒りと失望は大きかった。敗戦の半年後、46年2月には戦争犯罪自己調書を書き、自らの戦争責任を明らかにした。同じ2月には、多くの都市が廃墟になっている中で以下のような思いを日記に記している。

 

第2次大戦中における行動

 

第2次大戦中における行動

 

夢、実現されなければならぬ夢

(日記より抜粋)


青年諸君、老壮年のきたならしい夢を、
すっかりかなぐり捨て、よく消毒しよう。
青年諸君、
夢みろ、
夢みろ、
夢のないところに、
復興はないんだよ。

日本の村にも町にも
世界中の人が住み
世界中の国々に
日本人が住み
そこで働き
その土地のためになり
世界のためになり
みんなそこで葬られてゆくようになればいい。
 

1946.2.11

 

地方紙への投稿(紙の碑)

地方紙への投稿は15年間に2,100篇をこる。1956年の春に市役所前で「商工日日新聞」の丸地倫二記者に会い、原稿を頼まれたのがきっかけのようである。
年平均140篇で最も多い1963年は271篇、書いた方もすごいが、載せた方もすごい。そのため本名のほかに多摩丘人・中野吾作・菜梨言平・伊見亭庶・馬太屋みのるなど約70種のペンネームが使われている。
内容は、歴史・人物・社会批評・図書紹介などが多いが、教育・ふだん記・博物館・年表・平和と暴力・観光開発・女性の尊重・縄文農耕など多方面にわたっている。
橋本義夫はすべて切り抜き、裏打ちして保存したが、何時もこれらを“ボタ山”と呼んでいた。これまで本にまとめられたのは200余篇にすぎないが、火力のつよい粘結炭が多く、きらきら光るダイヤモンドも混じる。

 

地方紙への投稿(紙の碑)

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地方文化研究会の活動

1951年の春、橋本義夫は玄関先に「地方文化研究会」と書いた小さな看板をつるした。青年期から過去より未来と科学を尊重してきたので、大きな変化であり、楢原の青年たちから郷土研究の指導を頼まれたのが転機と思われる。おそらく土に埋もれた歴史を自分の目で発見することの大切さと、面白さを知ったからであろう。
この会の活動は20年間にわたり、建碑運動・「地方文化資料」「多摩文庫」などの刊行・地方紙への投稿活動に大別される。建碑は6年間に15基、資料の刊行は10年間に約50冊で、これに投稿が加わると驚くべき業績である。
「地方文化資料」には世に尽くした人たちや教育・文化の記録が多く、『平凡人の教育・文章』はのちのふだん記運動の原典である。また『古代中世地方史研究法稿』は、オリジナルと科学性に満ちた名著である。

 

地方文化研究会の活動

 

建碑運動(石の碑)

1951(昭和26)年「地方文化研究会」をつくった橋本は、地域に大きな貢献をしながら埋もれて顧みられない人々をあいついで発掘し、名誉を回復してその業績を後世に永く伝えるために、建碑運動をしていった。その数15基をこえている。

 

宗兵衛麦の碑 裸麦の新品種をつくった河井宗兵衛の碑

宗兵衛麦の碑
裸麦の新品種をつくった河井宗兵衛の碑

 

コックス先生碑 府立二商などの教師をしながら、近代化に尽くしたが強制送還になり、インド洋上で死亡した。

コックス先生碑
府立二商などの教師をしながら、近代化に尽くしたが強制送還になり、インド洋上で死亡した。

 

絹の道

 

「絹の道」
甲州街道を八王子からわかれる「鎌倉街道」が、後に「横浜街道」と呼ばれるようになり、その後この街道が御殿峠を通ることになり、今は全く廃道化し山道となって現在に至る。私はこの道を「絹の道と呼び、ここに記念碑を建てれば、「日本蚕糸業史跡」ともなるし、又美しい地名となると思った。

『沙漠に樹を』より

 

1996年「歴史の道100選」に選ばれる

1996年「歴史の道100選」に選ばれる

 

困民党の碑

 

困民党の碑
 塩野のおぢいさん
 小池のおぢいさん
 須長のおぢいさん
 おぢいさん達は長い長い世の冷酷な仕打ちによくも耐えられましたなあ。おぢいさん達の義挙を炉辺で聞いた少年の私ですら、湧きあがる怒りを押える事ができませんでした。「自由民権」を看板に騒いだ連中は、世に出て偉くなり、尊敬されました。然るにおぢいさん達の老いの身を忘れ、下心なく多くの農民のために真底つくした事が埋れ、朽ち果てることは私には、どうしても解せぬことでした。これで万事終るなら、この世に、真実も正義も有りません。

詩集『雲の碑』より

 

ふだん記運動

ふだん記は、創始者橋本義夫が、今から30余年前、それまで一部の人のものとされていた〈文を書く〉ということを、万人が書けるようにすすめた。言葉が人間の道具であるように、文もまた道具であり、文を書く、という抵抗感から解放したのが「下手に書きなさい」である。名文美文を手本とせず、自分の言葉で自分の文を書き事実を記録する。それをくり返すことによって、ものの見方や考え方が上手になり書くことが好きになる。
ふだん記は新人優先であり、門は常に万人に開けてある。文と文、人と人を較べず皆同じ一線上にある発表機関である。そうした仲間を文友と呼び、友の文を読んだらはがきを出す、もらったら返事を書く、これは文の上達につながるしたのしい。文を書くためにはいつもはがきとペンを置き、地図帳・年表・小型辞典があれば書くことはいっそう拡がる、書くことによって喜びは倍となり、悲しみや苦しみはうすれいやされる。自慢話やよいことばかりでは人は感動しない。辛かったことや失敗談こそ人の心を打つ。書いた文は積み重なり、やがては一冊の本となる。誰もが生涯に本を出せることを夢見て、早い時代からそれを唱え、実現された橋本義夫の理念は、自分史の原点となって今ここに生きている。

 

人類の勝利の大きな原因の一つはみんなが言語をもつことであった。だがその勝利を一層決定的なものにしたのは、文字とその組合せによる文章をもつことであった。然し、この文字、文章も、長い長い間は、直接には一部の特権者や、そのための文章職人等のものであり、上意下達的存在であった。
とに角、言語と文字は人類社会を今日の如く大きく発展させた。更にその能率を高めるためには、『言語が万人のものである如く、文字もまた万人のものでなければならぬ』と信じる。
これが我々の道である。然し、世の多くの発表機関はいまだに過去の習慣の中に沈み、(何とか理屈をならべているが)門を閉ざしている。文字が万人のためであるためには発表機関もまた門が開いていなければならない。
我々は、我々に開かれた発表機関を各方面で持つ必要がある。殊に末端にこういう機関がある事が万人に機会を与える上に極めて必要である。我々の課題は必要なそれを作ることだ。『人類文化の発展の公道にある』という、その旗の下にある機関とはいえ、お目にかけるものはなんとささやかなことよ、それがよい、それが底辺を満たすことだから。だがこの目標はあやまっておらず、その勝利は必至である。
一九六七年十二月十八日未明

ふだんぎ創刊号「発刊のことば」より抜粋

 

「ふだんぎ」創刊号はガリ版刷りで50部発行された。
だが、橋本義夫は「これが、いまに博物館に並ぶようにして見せます」と言った。

 

だれもが書ける文章

1978年初刷。86年9刷。この本を読んで自分史を書く気になったり、ふだん記運動に加わった人たちも多い。

 

ある鳶職の記録

最初はふだん記パンフレット「つん留の話」と題し1970年に謄写刷。その後ふだん記本25「ある鳶職の記録」として1972年11月刊。江戸っ子気質にあふれる暮らしの記録として注目され、1974年には丸の内出版から「鳶職のうた」として刊行。1975年NHK「私の本棚」で9回にわたり16話を柳家小三治が朗読し、レコードも発売された。

 

文章街道

この街道には、車のラッシュがありません
コンピューター、機械づくめ、規格がないんです
この街道は、静かです。さわやかです。暖かいです
サラリーマンも、職人も、若人も、年寄りも、他地者も
誰でも、みんな胸をはって伸び伸びと歩きます
この街道は、心が通います。心が通じるんです
どんなに離れていても、到着が同じなんです
遠い所ほど、道が開けるんです

この街道は、夢を運んでくれます
喜悦も、悲哀も、談笑も、なみだも、運んでくれます
この街道は、時を越えるんです
昔を運んでくれます
現在を運んでくれます
未来を運んでくれます

1970(昭和45)3.21

 

橋本義夫の著作コーナー


現存するものでは大正12年の同窓会誌の文章が最も古い。以後、地方新聞寄稿は日中戦争当時に約180篇、戦後の十数年にわたっては約2,100篇にも達する。また、ふだん記運動を中心とした戦後の活動で約800篇の文章が残されている。
1950年代半ばから地方文化研究資料、あるいは地方文化資料などとして謄写刷りのパンフレットで、地方史研究や地方の発展に尽くした人物の発掘紹介、あるいは古文書復刻にあたった。その後、ふだん記運動に連なる文筆活動では、単行本の形で約50編の著作がある。没後出版したものでは、『沙漠に樹を』と題した初期著作集で、「沙漠に樹を」「古代中世地方史研究法稿」「八王子に於ける教育運動」「詩集 雲の碑」「みんなの文章」など8編を選んで収録。『暴風雨の中』では日中戦争時代から敗戦一年後までの約10年間で現存する日記、手記などを取りまとめている。
 

ふだん記の歴史コーナー


みんなが寄稿してつくる文集、「ふだんぎ」は1968年1月に創刊(謄写刷35頁、15人が執筆)したが、手作りの質素なもので、号数も記載されていない。その後、寄稿者、発行部数も増え、71年18号からタイプ印刷となった。
文集は、67年数人の文を一冊にまとめた「多摩婦人文集」から試行的に始まった。以後年々個人文集が発行され、テレビ、新聞などマスコミに取り上げられたものも多く、全国から反響があり、文友も各地に拡がっていった。そのため、各地でふだん記グループ誌を発刊することが計画され、77年八菅、関西、茅ヶ崎などを皮切りに、78年士別、春日部,町田、79年さいはて(北海道)、所沢、四条畷、80年あいち、津軽、北九州、旭川、など4年で25グループが創刊号を出した。「独立するが孤立しない」のスローガンの下、グループ間の交流も行われ、投稿の場も拡がった。
橋本義夫の亡くなった85年には、「ふだんぎ」(全国)は72号に達し、27グループが各地でふだんぎ誌を年1~2回程度発行するようになっていた。この年までに個人文集は橋本の著作を除き240を越え、様々な職業・暮らしの記録を綴った庶民の生活記録・自分史が数多く生まれた。
橋本義夫は各地のグループ誌の巻頭言を書き、ふだん記運動の方向付けをすると共に、多くの人を励ましてペンを取らせ、個人文集の刊行に助言を与え、序文を書いた。
没後も、ふだん記誌は各地で発行され、現在は八王子にある「雲の碑」グループを含め25グループ、100号を迎えたグループもある。個人文集の発行も各地で行われている。

 

雲の碑

雲の碑

 

雲は動くからいい

雲は変るからいい

雲は国籍が無いからいい

雲はとらへられないからいい

雲は誰れのものでもないからいい

雲はだから私がひかれるのだ

 

橋本義夫

 

「おぢさん
『雲の碑』いゝわねー
どこへ建てるの」

「おぢさん
『雲の碑』いつ建つの」

「おぢさん
『雲の碑』いつ建つの」

「おぢさん
『雲の碑』まだ建てないの」

 

橋本が、「私が幼い頃からずうっと雲が好きで、丘の雑木林あたりに『雲を讃える碑』を建ててみたい」と、夢見ていた碑は生前に建てられることはなかった。
没後の翌1986年7月20日、橋本の詩の中から「雲」を添碑に選んで、多くの文友や市民が集い、高尾山に「雲の碑」を建てて除幕した。以来毎年命日の8月4日には「雲の碑忌」で橋本を偲んでいる。

 

エピローグ

書く人をはげましつづける

橋本義夫が村の青年たちと手書きの回覧紙『揺籃』を出したのは1927(昭和2)年のことである。その冒頭には、「みじかく書きます。そして本当の事を書きます。私たちは貧乏です。知識はありません。名文なぞ無論書けません。けれど、生きる上においては、成長しなければなりません。そこで伸びるための第一歩として『揺籃』が出たのです」と、のちのふだん記につながる運動はこの時代に始まっていたことが書かれている。橋本25歳のときである。
それからは、読書運動としての書店経営、農村の悪習打破運動、戦前・戦後のボタ山と呼んだ2千数百にも及ぶ地方紙投稿、埋もれた人々を顕彰する建碑運動、地方文化研究会活動などをしているが、苦難と挫折の連続だった。先進性ゆえに世に受け入れられることの少なかったこの道のりを、「探求50年」と自ら語っている。その底流では一貫して、立場の弱き人たち「万人」の自立を願っていた。そして最後にたどりついたのは、言葉を庶民に開放し、庶民自らが自分の言葉で語ることだという、すでに20代に始めていた運動の確認でもあった。
「ふだん記」は偶然にうまれたものではなく、橋本にとっては、ようやくその「時」を得て未来につながる手応えのある運動であった。「大きな拾いものですわ」とよく口にしていたのは、その進展が自らの予想をはるかに超えた早さへの驚きであった。
「文を書くなんて」と尻込みする人たちには「下手に書きなさい」と言い、こだわりをとりのぞいていった。1974年には書き込み式の「執筆者身辺年表」を作成して、それぞれの人生を歴史の中でとらえることをすすめた。現在の「自分史年表」のさきがけである。印刷技術の進歩も、ふだん記運動など庶民の出版を身近なものにしていた。こうして、橋本自身晩年のふだん記によって花開き、多くの人々に書くよろこびを与えた。
「文を書いてうれしい、初めて活字になった、うれしくてしょうがない。あのよろこびが最もエネルギーをかきたてるんです」。すでに死を覚悟していた83歳の誕生日に、橋本義夫が残したメッセージは、これからも文を書こうとする人々をはげまし続けるであろう。

 

禿山に木を植える男

ひろい 禿山に
木を植えている男がいる
乞食の様な姿で
唯一人
疲れきっているらしく
休み 休み 植えている
枯れている木がみえる
いぢけた 木も見える
だが 男は木を植えている

ひろい 禿山に
木を植えている男がいる

しわだらけの顔
落ちくぼんだ頬
みんなが 指してあざけっている
この男は その声を知っている
だが ひとごとのような顔だ
苦渋の顔の中に
光りが 放射している
あの眼をみろ
あの顔をみろ
勝利を得たものの顔だ

(1954.5.3)

 

略年譜

1902 明治35年 3月13日に東京府南多摩郡川口村楢原の橋本喜市と妻春子の次男として出生
1909 42年 川口村立陶鎔小学校に入学。無口で乱暴を嫌い、何でも試してみないと気がすまない少年で、冬の夜炉端で困民党事件の話を聞いて憤る
1917 大正6年 青梅の府立農林学校に入学。文芸誌『新潮』を読む
1920 9年 卒業後家業(土木業・農業)を手伝う。トルストイや武者小路実篤らの作品を読む
1924 13年 村の青年たちと念西庵を「教育の家」と呼び、読書会や回覧誌「自然人」「揺籃」の発行などおこなう
1925 14年 内村鑑三に傾倒する
1926 15年 下中弥三郎らの農民自治会運動に参加。生活改善や悪習廃止にとりくむ
1928 昭和3年 友人たちと八王子市内の老朽家屋を借りて書店「揺籃社」を開く。店名はスイスの教育者ペスタロッチの言葉からつける
1929 4年 井出定子と結婚。歯科医の須田松兵衛や桑都公会堂の書記松井翠次郎と親交をむすぶ
1930 5年 「揺籃社」の新店できる(横山町富士銀行付近)。のちに多摩地方の教育・文化センター的役割をもつ
1935 10年 厭世観のあと、ライプニッツの<理由なしには何物も存在しない>の言葉に目を開かれる
1937 12年 教育科学研究会の一行が八王子市に訪れ、この運動に加わる。地方紙への投稿活動盛ん(前後3年で約180篇)
1939 14年 岩波書店出版の『教育』誌に「八王子における教育運動―薫心会を中心に―」を書く
1940 15年 教育映画「村の学校図書館」に出演。野副婦美と再婚
1941 16年 多摩郷土研究会を結成(6月)。無医村解消運動を起こして成功する。太平洋戦争開始(12月8日)
1942 17年 市川英作らと大東亜黎明会をつくる(1月)。日米の戦力を分析して敗北することを知り解散(12月)
1944 19年 治安維持法違反で早稲田署に拘禁される(12月7日)
1945 20年 釈放(4月)。空襲で「揺籃社」と生家焼失(8月2日)。敗戦。新生日本のあり方について「わが主張」14項目を記す(8月18日)
1946 昭和21年 「戦争犯罪自己調書」を書く(2月)
1947 22年 戦後の世相に失望して自殺を図る
1948 23年 楢原の青年たちから郷土研究の指導を頼まれる
1949 24年 祖国復興に天才を役立てる研究に没頭する
1951 26年 自宅に「地方文化研究会」をつくり、科学的な地方史研究を開始。以後埋もれた義民などを顕彰する建碑活動(6年間に15基)や「地方文化資料」の刊行(10年間に50冊)にとりくむ
1954 29年 『歴史評論』誌11月号に「困民党事件」を発表
1956 31年 この年から「商工日日新聞」などへの投稿文が急増する(15年間に2100篇以上)
1958 33年 ふだんぎの会をつくって婦人回覧誌を発行。多摩地方の文化活動を発展させるために奔走する(翌年多摩文化研究会結成に参加)
1960 35年 『平凡人の教育・文章』(ふだん記運動の原典)・『古代中世地方史研究法稿』など執筆活動盛ん
1962 37年 井上郷太郎の古代瓦コレクション寄贈に感動し、その実現化運動に加わる(8月)
1967 42年 四宮さつきを知る。八王子市郷土資料館が誕生し運営委員になる。『多摩婦人文集』刊行
1968 43年 『ふだんぎ』創刊号が大野聖二宅で誕生(1月27日)。ふだん記活動開始
1974 49年 「執筆者身辺年表」作成。のちの「自分史年表」のもとになる
1975 50年 色川大吉『ある昭和史-自分史の試み-』(中央公論社刊)で初めて「自分史」の語を使う(この中に橋本義夫の生涯を詳述)
1975 50年 “多摩の自然を守る展”で「丘君・雑木林君」の題で講演(7月)。その記録『抑制の哲学』刊行
1977 52年 『書いて花咲く哲学』刊行(欅出版)。「新人類文化研究会」発足
1978 53年 『だれもが書ける文章』刊行(講談社)。第1回八王子市文化功労賞を受ける(10月)
1982 57年 旭川市でふだん記北海道大会開催
1984 59年 青森県大鰐町でふだん記東北大会開催。「逢う日・話す日」八王子大会のあと帯状疱疹にかかる(11月)
1985 60年 癌のため戸吹町の三愛病院に入院(5月)。「老枯日記」を記す。文友たちを励ます。8月4日永眠

 

「ふだん記」紹介記事 2003年11月1日(土) アサヒタウンズ

「ふだん記」紹介記事 2003年11月1日(土) アサヒタウンズ

 

─ 記事紹介 ─

わがまち八王子 「ふだん記」グループ
亡父の意志継ぐ文集 庶民の目で見てつづる


自分史のさきがけとなった「ふだん記」運動の創始者・橋本義夫さん(享年83)が1985年8月4日に亡くなって18年になるが、全国に27グループ、推定2000人以上の文章をつづる仲間“文友”の中で橋本さんは、今も生き続けている。
元公務員で橋本さんの次男・鋼二さん(69=八王子市北野台)、緑さん夫妻は、来月に出版する文集「八王子 雲の碑」13号の編集を終えて、校正ゲラの上がりを待っている。
この号も庶民の生活から見えたもの、日々考えていること、随筆など、幅広いテーマでつづられている。
「ふだん記」は、68年、ガリ版刷りで創刊された。民衆史の掘り起こしをしてきた橋本さんの「下手に書きなさい、書くことが好きになりなさい」「記録として書け、誇ろうとするな」「平凡と見過ごされているものを、よく凝視しよう」「単純な言葉ほど真実である」と、文章を苦手とする多くの人の心を解放した。
「書くことによって、喜びは倍となり、悲しみや苦しみは薄れ、癒される。自慢話や、よいことばかでは、人は感動しない。辛かったことや失敗談こそ人の心を打つ」と、名文を手本とせず、自分の言葉で文を書き、事実を記録することを繰り返すことで、ものの見方や考え方が育ち、書くことが好きになると説いた。
橋本さんは、青年期から真実を追究し続けた。大正デモクラシーの影響を受けて読書会「教育の家」運動を展開し、農村の生活習慣の改善を求めたり、地方文化の研究などに力を注いだ。
活動の源にあったのは、立場の弱い人たちの自立だった。活動は苦難続きだったが、自ら語っていた「探求50年」の言葉通り、「ふだん記」の創刊で文友が全国に広がって開花した。それぞれの地域で文集や個人文集を年に1、2回発行している。
「ふだん記」創刊以前から付き合いのあった同市追分町の大野弘子さん(74)は「橋本さんは、弱い立場の人には暖かく、強い立場の人には厳しかった。橋本さんほど既成概念をもたれない人はいないと思う。時には目の前の現象を『よく見ておくのですよ』と言われ、事実を冷静に見届け、分析された」それは私にとって、驚きとともに喜びであった」としのぶ。
考古学者の椚國男さん(77=八王子市中野山王町)は、「私は人との出会いに恵まれてきたが、最も心ひかれたのは橋本義夫さんだ。橋本さんは庶民の教育者であり、探求者であり、詩人でもあった。また、権威を嫌い、科学を愛し、世界に通用する日本を願っていた。少年・青年期を大正デモクラシーの中で育ち、内村鑑三の影響を受け、そのため戦争時代は苦痛な日々を過ごし、災難にも遭った。その生涯は庶民の教育・文化のために奔走し続けた無報酬の教師だったといえる」。
庶民に文章を身近なものにしただけでなく、文章を書くことで人を育てた。2年前には、文友が集い、生誕100年展を開いて功績をたたえた。
鋼二さんは、橋本さんが書き残した膨大な原稿を整理しつつある。これらを「八王子 雲の碑」に発表していきたいと話している。

好きなスポット 絹の道 鑓水商人が歩んだ面影残す

橋本義夫さんは、地域に貢献しながらも顧みられない人々を次代に伝えるために建碑運動をして、その業績をたたえた。建てた碑は15基を越えるという。その一つに「絹の道」がある。
1859年(安政6年)の横浜開港から明治初めの鉄道開通まで、八王子から輸出用の生糸が浜街道を通って横浜へ運ばれた。開港以前、糸の買い手であった八王子・鑓水(やりみず)商人は、その後、売り手となり、運んだ生糸は横浜からアメリカやヨーロッパへ輸出された。
その街道の面影が、今も残る。八王子市鑓水の御殿場橋から大塚山(公園)まで約700メートルだ。散策には、もってこいだ。ここを橋本さんは、57年に「絹の道」と命名した。72年、同市指定史跡になり、さらに、96年、文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた。八王子市の絹の道資料館もある。このコースを鋼二さん夫妻は、四季おりおり訪ねている。
大塚山公園へは、八王子駅南口から西部北野台行きバスで北野台3丁目下車。