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ふだん記 〜ふだん記運動について〜
 「ふだん記」運動は故橋本義夫氏(1985年没)の提唱によって1968年に八王子市で生まれました。
 橋本さんは「下手に書きなさい」と、まず文章を書くことをすすめました。「上手本意の競争をしないで、人生の報告書を一冊残すこと。美文名文などより、自分の生きてきた事実をありのままに記録すること」をすすめました。そして、この運動が拡がって庶民自身の歴史が市民権を得ることで、人類史上かつてなかった新しい文化が芽生えると考えていました。
 この主張は、職業や地位、男女の差をこえて広く庶民に受け入れられました。読む側・見る側にいた人々が、書く側・作る側にまわり、自己表現の可能性にめざめたのです。今では全国各地に「自分史」と名の付くグループや、自治体によるセミナーまでありブームの様相を呈していますが、その魁となった運動です。
 全国に27グループある「ふだん記」は、それぞれ年2回ほどの機関誌を出して、「独立するが孤立しない」をモットーに交流しあっています。原則として、会則も会費もないこのグループの、会員の条件は文を書くこと、文友と呼ばれる仲間と手紙を出し合って交流をすることです。一人で書いているより大勢の人と交流しながら書いて、ある程度書きためた文章を編集しなおして一冊の自分史として出版しています。こうして生まれた個人本が約500冊ほどになります。「新人優先」もこのグループの特徴です。詳しくお知りになりたい方はご遠慮なくお申し出ください。
グループ誌の刊行
 グループに参加している会員が、日常生活の出来事や長い人生の思い出などを、原稿用紙2,3枚につづり、各地のグループがそれぞれ年2回ほど機関誌を発行しています。どこのグループへでも投稿ができるため、会員相互の交流の輪がひろがって活発な活動を続けています。
『ふだん記本』(A5判)
 「ふだん記」に参加して、ある程度書き慣れてきて、自分の書いた原稿がたまったところで、自分だけの本を刊行するようになってきました。配本された文友は感想文を書き支援の喜捨をして、それを支えあっています。
『ふだん記新書』(B6判)
 コンパクトなB6判で、原稿量・製作経費の節減による普及効果もありましたが、なによりオイルショック以降の社会情勢の危機意識のあらわれでもあります。省資源,省エネルギー化の中で庶民の声を発表していこうという姿勢があらわれています。
橋本義夫の生涯と自分史の源流
@プロローグ(「ふだん記」と「自分史」)
A農村での教育運動
B書店揺籃社を基盤とした文化活動
C文化映画「村の学校図書館」
D第2次大戦中における行動
E地方紙への投稿(紙の碑)
F地方文化研究会の活動
G建碑運動(石の碑)
Hふだん記運動
I文章街道
J雲の碑
Kエピローグ
L略年譜
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「ふだん記」紹介記事 2003年11月1日(土) アサヒタウンズ
─ 記事紹介 ─

わがまち八王子 「ふだん記」グループ
 亡父の意志継ぐ文集 庶民の目で見てつづる
 自分史のさきがけとなった「ふだん記」運動の創始者・橋本義夫さん(享年83)が1985年8月4日に亡くなって18年になるが、全国に27グループ、推定2000人以上の文章をつづる仲間“文友”の中で橋本さんは、今も生き続けている。
 元公務員で橋本さんの次男・鋼二さん(69=八王子市北野台)、緑さん夫妻は、来月に出版する文集「八王子 雲の碑」13号の編集を終えて、校正ゲラの上がりを待っている。
 この号も庶民の生活から見えたもの、日々考えていること、随筆など、幅広いテーマでつづられている。
「ふだん記」は、68年、ガリ版刷りで創刊された。民衆史の掘り起こしをしてきた橋本さんの「下手に書きなさい、書くことが好きになりなさい」「記録として書け、誇ろうとするな」「平凡と見過ごされているものを、よく凝視しよう」「単純な言葉ほど真実である」と、文章を苦手とする多くの人の心を解放した。
「書くことによって、喜びは倍となり、悲しみや苦しみは薄れ、癒される。自慢話や、よいことばかでは、人は感動しない。辛かったことや失敗談こそ人の心を打つ」と、名文を手本とせず、自分の言葉で文を書き、事実を記録することを繰り返すことで、ものの見方や考え方が育ち、書くことが好きになると説いた。
 橋本さんは、青年期から真実を追究し続けた。大正デモクラシーの影響を受けて読書会「教育の家」運動を展開し、農村の生活習慣の改善を求めたり、地方文化の研究などに力を注いだ。
 活動の源にあったのは、立場の弱い人たちの自立だった。活動は苦難続きだったが、自ら語っていた「探求50年」の言葉通り、「ふだん記」の創刊で文友が全国に広がって開花した。それぞれの地域で文集や個人文集を年に1、2回発行している。
「ふだん記」創刊以前から付き合いのあった同市追分町の大野弘子さん(74)は「橋本さんは、弱い立場の人には暖かく、強い立場の人には厳しかった。橋本さんほど既成概念をもたれない人はいないと思う。時には目の前の現象を『よく見ておくのですよ』と言われ、事実を冷静に見届け、分析された」それは私にとって、驚きとともに喜びであった」としのぶ。
 考古学者の椚國男さん(77=八王子市中野山王町)は、「私は人との出会いに恵まれてきたが、最も心ひかれたのは橋本義夫さんだ。橋本さんは庶民の教育者であり、探求者であり、詩人でもあった。また、権威を嫌い、科学を愛し、世界に通用する日本を願っていた。少年・青年期を大正デモクラシーの中で育ち、内村鑑三の影響を受け、そのため戦争時代は苦痛な日々を過ごし、災難にも遭った。その生涯は庶民の教育・文化のために奔走し続けた無報酬の教師だったといえる」。
 庶民に文章を身近なものにしただけでなく、文章を書くことで人を育てた。2年前には、文友が集い、生誕100年展を開いて功績をたたえた。
 鋼二さんは、橋本さんが書き残した膨大な原稿を整理しつつある。これらを「八王子 雲の碑」に発表していきたいと話している。
好きなスポット 絹の道 鑓水商人が歩んだ面影残す
 橋本義夫さんは、地域に貢献しながらも顧みられない人々を次代に伝えるために建碑運動をして、その業績をたたえた。建てた碑は15基を越えるという。その一つに「絹の道」がある。
 1859年(安政6年)の横浜開港から明治初めの鉄道開通まで、八王子から輸出用の生糸が浜街道を通って横浜へ運ばれた。開港以前、糸の買い手であった八王子・鑓水(やりみず)商人は、その後、売り手となり、運んだ生糸は横浜からアメリカやヨーロッパへ輸出された。
 その街道の面影が、今も残る。八王子市鑓水の御殿場橋から大塚山(公園)まで約700メートルだ。散策には、もってこいだ。ここを橋本さんは、57年に「絹の道」と命名した。72年、同市指定史跡になり、さらに、96年、文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた。八王子市の絹の道資料館もある。このコースを鋼二さん夫妻は、四季おりおり訪ねている。
 大塚山公園へは、八王子駅南口から西部北野台行きバスで北野台3丁目下車。
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